2009年7月14日火曜日

場所と植物

午前中は職場のパソコンをにらみ続けて、やっと成績を入れることができた。幾重にも厳重に鍵がかけられた神棚を必死に開けながら、点数を入れる、欠課時数を入れる、三年生は五段階の評定を入れる、というような作業を繰り返して行く。ちょっと間違うと神棚は開いてくれない。若くて親切そうな現役の先生に頼んで開けてもらい、また最初から作業をする。いらいらして、コンピューターを壊したくなる。すばやく、無造作にさっとこの機械のシステムと親和状態の極地でハイな感じで作業をやっている人々を見ると、なんでこんなことをしなければならないのか?などと思ってしまうのだ。ここまで厳重に、機械にすべてを捧げるのは、個人情報の管理強化ということからなのか、はたまたすべての文書の活字化などというのは古くさい考えだろうが、入れた後は便利に機械が印刷から加工からすべてをやってくれるからか。手書きで、点票にかいて、それを集計した昔の方が作業は簡単だったような記憶が私にはある。それにコンピューター室はいつも混んでいて神棚に向き合うことからして大変なのだ。どうにかやっつける。まあいいや。これで前期は終わったのだから。

帰ってから歩く。いつもの川ぞいの道を一時間半。8キロ近い。昨日の朝、6時過ぎの歩きのときみた淡い青の空とは違って曇っている。
マルチニックに今滞在している中村君のblog(OMEROS)を愛読している。そこで言及されていた中上健次のエッセイ『〈場所〉と植物』と『フォークナー、繁茂する南』を読む。フォークナーのヨクナパトーファの舞台になったオックスフォード近辺にこの夏行きたいものだ。中上の言うフォークナーの「すいかずら」と日本の「竹」の対比。『〈場所〉と植物』をこの夏のテーマとして考えてみようなどと思う。そのことが自分の詩にもいい影響を与えるようなしかたで。

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