2008年4月28日月曜日

オコナーから鶴見へ

去年のいつだったか、朝日新聞に掲載されている大江健三郎の連載コラム「定義集」で、Flannery O'Connorという名前だけは知っていたアメリカ南部の早逝した女流作家のことが書かれていて、読みたいなと思ったことがあった。大江の文脈では、簡単に言えば、同じカトリックの作家なのに、ここのSという功なり名遂げた女流と、アメリカはディープ・サウスの短編作家の切実な生を対比することで見えてくるものを迂回しつつ言おうというものであった。その回りくどさに、私は躓いたが、今ははっきりと私なりの言葉で言うことができそうだ。というのは、私はそれからオコナーの全短編を読んだからだ。

Sという作家は、沖縄の戦争中の「集団自決」を、「殉難」「殉教」というCatholic(普遍的な)的な「物語」のなかに回収し、だれも責任のとりようのないものとして、むしろ自発的な行為として「美化」する。オコナーはもちろん、このことには言及していないが、彼女の作品から私が想像するかぎりでは、どのような意味づけもたとえばこの「事実」には与えないであろう。その「悲惨」さにどれだけ接近できるか、というのが彼女の方法である。「事実」の動かし難い「悲惨」さに圧倒されること、そこからどうして生き延びるかということ、その生き延びる生のなかでの新たな「悲惨」を、その原因の事実の悲惨に対峙させる、彼女の方法はこれだけだ。愚痴や救いはここではタブーである。とくに解釈としての、メタフィジックなものははっきりと乖離される。ここに浮かび上がってくるのは、エホバの顔を避けて生きるしかない人間のとりうる「経験」の諸相に対する眼差しの差違であると私は思う。

オコナーの短編全集の訳者、横山貞子が鶴見俊輔の伴侶であるということを私は不覚にも最近まで知らなかった。鶴見の「期待と回想」(朝日文庫で今年再刊)を最近読んでいるのだが、ここにあるのは自らを「悪人」として自覚した人間の、「生き延びる」ための方法である。オコナーについて鶴見は次のように述べている。

― アメリカ人は、まだ、第二次世界大戦とヴェトナム戦争の二つをとらえるだけの力量をもっていないんです。今後、それは現れてくるかどうかはわかりません。日本の場合、大岡昇平の一連の作品『俘虜記』『野火』『ミンドロ島ふたたび』、その後に『レイテ戦記』がある。この四つはたいへんなものだと思いますね。アメリカ人はそれだけのものを第二次世界大戦について書いていない。しいていえば、オコナーの『善い人はなかなかいない』。これを読むと、アメリカ人はどうして原爆を日本に落としたのかがわかる寓話のような気がする。二十世紀のアメリカ作家の中でオコナーはずぬけていると思いますよ。―

オコナーの『善い人はなかなかいない』という短編は、祖母をまじえた車での家族旅行の最中に道に迷い、脱獄囚のグループに出会い、一家が射殺されるという悲惨な話である。Sのように「気品」の好きな祖母は、脱獄囚のリーダーとキリストの奇跡について問答する。その場面を横山訳で引用してみる。このリーダーの名前は、原文ではMisfitだが、その意味をとり、横山貞子は<はみ出しもの>と訳している。

― <はみ出しもの>は話を続ける。「死人をよみがえらせたのはイエス・キリストだけだよな。そんなことはしないほうがよかった。イエスはあらゆるものの釣り合いを取っ払ったんだ。イエスが言ったとおりのことをやったとすれば、おれたちはすべてを投げ出してイエスに従うほかない。もし、イエスが言ったとおりのことをやらなかったとすれば、おれたちとしては、残されたわずかな時間を、せいぜいしたいほうだいやって楽しむしかないだろう―殺しとか、放火とか、その他もろもろの悪事を。悪事だけが楽しみさ。」話すうちにだんだん声が大きくなる。
「もしかすると、イエス様は死人をよみがえらせなかったかも。」なにを言っているかよくわからないまま、おばあちゃんはつぶやいた。目まいがして、堀の中にひざを折ってすわりこんだ。
「おれはそこにいたわけじゃないから、イエスが死人をよみがえらせなかったとは言い切れない。」<はみ出しもの>が言う。「おれはその場にいたかった。」彼はこぶしで地面を打った。「いられなくて残念だよ。もしいたら、はっきりわかったのに。そうだろうが。」声が高くなった。「もしその場にいたら、はっきりわかったのに。そうすればおれはこういう人間にならずにすんだんだ。」泣きわめく声に変わる寸前だった。
おばあちゃんはその一瞬、頭が澄みわたった。目の前に泣きださんばかりの男の顔がある。男に向っておばあちゃんはつぶやいた。「まあ、あんたは私の赤ちゃんだよ。私の実の子どもだよ!」おばあちゃんは手をのばして男の肩にふれた。
<はみ出しもの>は蛇にかまれたように後ろに飛びのいて、胸に三発撃ちこんだ。それから拳銃を置き、眼鏡をはずして拭きはじめた。 ―

悪人と、死を前にした人のいい祖母の会話を書き写しているうちに、鶴見が勉強したアメリカのプラグマティズムの考えが、この悪人にも徹底しているのだと思った。こういうふうに段階を踏んで攻められると、おばあちゃんのイエスばりのヒューマニズムの日和見主義がはっきりと区別される。
疑うこと、経験に即して疑うこと。この話が「アメリカ人はどうして原爆を日本に落としたのかがわかる寓話」という鶴見の評とどう関係するのかは私にはよく分からないが、このMisfitという人物の理詰めの仕方の書き方に、私は今ひかれる。どこにも<救い>はないが、<救われなさ>にとどまる自由というか、態度がある。要するに、これがオコナーの信仰だったのだ。

鶴見俊輔という人も、そういう人ではないか。

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