2008年5月8日木曜日

黙説(aposiopesis)

 久しぶりの授業。佐藤信夫『レトリック認識』からの問題文。連休中に読もうと、この人の二冊『レトリック感覚』『レトリック認識』を購入していた(ともに講談社学術文庫、前者は78年、後者は81年だが、文庫版はともに92年の刊行)。『レトリック感覚』の奥付を見ると、07年までに25刷とあるから、すごいベストセラーである。拾い読みしかできなかったが、わかりやすく、また引例の文章が魅力的で面白い。レトリックが単なる表現の「技法」ではなく、認識と発見の「造型」としての<ことばのあや>であるというのが筆者の基本的な見解である。

  葉蔵は、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから、三十丈もの断崖になってゐて、江の島が真下に小さく見えた。ふかい朝霧の奥底に、海水がゆらゆらとうごいてゐた。
  そして、否、それだけのことである。          (太宰治『道化の華』)

これは、そのレトリカル・フィギュアの一つとして分類されている「黙説法」aposiopesisの例文である。語らぬことも言語表現を成立させるための重要な因子の一つである。「そのものがたりをそこまで読んできた私たちは、海を見はるかすその風景のなかで、若い男女の心のなかにも何かがゆらゆらとうごいているのを感じている。そこまでの叙述はあきらかに私たちのささやかな想像力をそそのかして来たのだ。最後の一行が<そして>と書きはじめられているのは、読者の想像力への奇妙な、小さな誘惑である。直後に裏切るための微笑に似ている」と佐藤信夫は、これも名文と私には思われるが、書いている。

 詩のなかに「………」を入れて、これと似た、読者の想像力を能動化させるような書き方をする人も多い。
そのとき、詩の読者が、「臨時の詩人」になって、残りの意味を産出するようなことがあるのだろうか?佐藤信夫は、このあとにそういうことを書いているのだが。

 こういうことを考えながら生徒たちと一緒にこの文章を読んだ。帰ってから、太宰が読みたくなり、家中探したがない。息子(太宰の愛読者)の本棚も調べたが一冊もない。太宰だけはすべて持って行ったのだなと思った。

 そして、否、それだけのことである。

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