2008年5月11日日曜日

誇張(hyperbole)

処女作『鶴』の評判は、「彼」の傲慢な意気込みと期待に反してさんざんな批判をもって迎えられた。なかでも「…作者は或ひはこの描写によって、読者に完璧の印象を与え、傑作の幻惑を感じさせようとしたらしいが、私たちは、ただ、この畸形的な鶴の醜さに顔をそむけるばかりである」という手厳しい批評は「彼」をうちのめした。

 彼はカツレツを切り刻んでゐた。平気に、平気に、と心掛ければ心掛けるほど、おのれの動作がへまになった。完璧の印象。傑作の幻惑。これが痛かった。声たてて笑はうか。ああ。顔を伏せたままの、そのときの十分間で、彼は十年も年老いた。
                        (太宰治『晩年』「猿面冠者」)

「誇張法」(ハイパーボリ)という、ことばのあや、の「心情的な誇張法」の例として佐藤信夫(『レトリック感覚』)があげているものだ。そして次のように説明している。とても面白く的確である。
 
 
 …魅力的な誇張法の大部分は知的に機能するけれど、この太宰の誇張法が生み出すものは、屈折した心情にかかわる、悲しいユーモアであろう。もちろん、知的な側面がないということではない。言語がみずからのいたらなさを大形に真似してみせるというパロディーのユーモアが、まったく知的でないわけにはいかない。
   しかし、「そのときの十分間で、彼は十年も老いた」とは、心情の誇張的事実を誇張的に記述したことばである。割り引かれる分だけあらかじめ掛け値をしておくという、見かたによってはいやな表現は、知的であるよりは心情的な計算だ。その計算を私たちがときどきいや味に感じるのは、とりもなおさず、それがやむにやまれぬ心情をさらけ出しているからである。異様な事実を「異様だ」と書いたのでは、正確に伝えることは困難だ。奇妙なようだが、考えてみれば当然ともいえるので、つまり、「異様な」ということばは申し分なく正常な形容語なのである。異様な事実は、その異様さにふさわしいそれ自体異様なことばでしか伝えられぬという、いわば《掛け値理論》の計算をほとんど本能的に承知しているのは、知性ではなく心情であった。

 
 佐藤のこのような説明を読むと、この人の言語観というのが分かるような気になる。基本的に、誇張(法)というのが「言語がみずからのいたらなさを大形に真似してみせる」という考えは、言語が真理を伝えるものであるというような考えとは正対するものである。言語とは、うそ、をつくしかないものであり、正確にはうそをまとわりつかせるしかないものであり、そこからの離脱にいたる、たえざる、なみだぐましい努力がレトリックを産出するということなのである。またそのプロセスでいくらでも「うそ」はまとわりつくであろう。スローガンやプロパガンダの言語でないかぎり、とくに太宰のような文学作品における「心情」という厄介なものを言語的に成立させるためには、それこそ隔靴掻痒の思いに絶望しながら、大幅な《掛け値》的表現のエクリチュールが展開されねばならないのだろう。彼の「真」と「信」は、偽りと不信の道からしか出現しないのかもしれない。

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