2008年5月27日火曜日

さねをさねてば

― 伊香保ろの八尺(やさか)の堰(いで)に立つ虹(ぬじ)の、あらはろ迄も、さねをさねてば

【折口信夫による口語訳】伊香保の山の八尺、即ち、幾尺とも知れぬ高い用水壕の辺りに立ってゐる、虹ではないが、あの様に、人の目に付いて現れる迄も、満足する程寝たならば、見つかってもかまはない。―

中沢新一の『古代から来た未来人 折口信夫』を読んでいたら、上の万葉の一首が引用され、古代人の「喩」―異質なものの重ね合わせ―の実例と、それが如実に理解されている折口の訳ということが書かれていた。「類似性能」というのを折口信夫の思考の根源に見て、それが「古代人」折口の直観によるもので、近代的な「別化性能」とは異なるものだというのが、中沢の折口理解の一端である。「類似性能」とはアナロジーである。全く異なるもののなかに類似を発見することが折口の学問の根底にあったというのだ。このことの意味は、中沢にとって、己もそのような学問を作り出したいというほど大きなものである。

虹を媒介として、その「あらはろ」という類似が、恋の露見(あらはろ)とかさなる歌、正確には虹のように現れてもかまわない、あなたと充分に寝ることがかなうならば。この歌の上句を「序詞」などと呼ばないことが中沢のいいところだ。東国の荒々しい恋の歌。

こういう歌を読むと、日ごろ「別化性能」、ちがいだけを言い立てている自分も含めて、その「衰弱」の「あらはろ」さをいやおうなく気づかされる。

和史は今北海道の原野で自力で家作りの第一段階にとりかかっている。その日記を読むと、北海道の寒さが伝わってくるようだ。これも「類似性能」と言っておこう。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ブログの内容とはちょっと別ですが、この歌、東歌でしょうか、これを読んで在五中将の歌を思い出しました。曰く、

秋の夜の千夜を一夜になずらへて八千夜し寝ばやあく時のあらむ

これには返しの歌があるのですが、それは措いておいて、言いかける男の側の心性だけは、措辞を透過して万葉古代的ですね。

ban さんのコメント...

仰せの通り、巻14の東歌の「上野の国の歌」22首中の一首です。

伊香保風吹く日吹かぬ日ありといへど吾が恋のみし時なかりけり

というような一首もここにはありました。これは「都から来た人の歌であろう」というのは武田祐吉の注釈です。

兄の掲げた歌が筒井筒の段の前にあることに今気づきました。連続して読むと、その対比に味わいが深まります。