2008年5月12日月曜日

緩叙(litotes)

①私はうれしい。
②私はかなしくない。
③私はうれしくないわけではない。

①の平常文に対して、②は緩叙法であり、③も二重否定の緩叙法である。

 緩叙法の古典的定義は佐藤信夫の参照しているピエール・フォンタニエによると「あることがらを積極的に肯定するかわりに、それとは反対のことがらをはっきりと否定する。あるいは、そのことがらを、程度の差はあるにしてもとにかく、弱めて表現する。その意図はまさに、緩叙表現がおおいかくしている積極的な肯定に、いっそうの力と重みを与えることにある」。佐藤はこの後半の「弱めて表現する」という定義と、「意図」に関する説明を留保して、「あることがらを積極的に肯定するかわりに、それとは反対のことがらをはっきりと否定する」ということを緩叙法の定義として採用する。後者の定義は誇張の逆であり、この表現の意図については「ひたすら強調するとはことにある、とは考えにくい」という理由からである。

 佐藤は緩叙法(ライトティーズ)の意図を大きく次のように説明してみせる。

――  ある大きな黒いものが目の前に立ちはだかっているとき、ただそればかりを見ていると、やがてそれは黒いものとして感じられなくなるだろう。黒さに取りまかれ、私たちは黒い世界のなかにあり、その黒さが自然のようになる。なぜなら、そのそばには、比較検討すべきほかの色が存在しないからだ。万一私たちが、生まれてから死ぬまでその黒さのなかにいるのだとしたら、それを黒さと呼ぶことも、知らずに生涯をおえてしまうかもしれない。緩叙法は、存在しない白さを、強引に思い浮かべる方法である。その想像力の働きによって、はじめて私たちは、黒いものが《白くない》ものであることを知る。緩叙的姿勢が、ときには私たちにとって認識上の救いになる。(『レトリック感覚』)――  

①私はうれしい、という文にもどろう。「うれしい」ということだけを私たちが知っている世界、あるいはそう強いられている世界を想像せよ。あるいは強制的にそうであるようにさせられている世界、社会、国などを想像せよ。「私はかなしくない」と、そこで発言することは、その世界では許されないだろう。でも、そう発言することがその体制に罅をいれることにもなろう。かすかな罅。「かなしくない」という発言が成立させる認識は「かなしさ」のすぐ隣にあり、「かなしさ」を誘発させることにもなろう。③の二重否定はもっと微妙に隠微であるがゆえに、もっと権力者の忌避にふれるものになるかもしれない。「認識上の救い」とは、言語の無意識の力の発動にもなる。

田村隆一の詩の一節を思い出した。

  晩年のムンクの自画像を見て
  ぼくはぼくらの時代の漂流物が散乱している
  虹色の渚を帰ってきた
  病める生というものはない
  生そのものが病んでいるのだ

  裸足の青年がひとり
  むこうから歩いてくる           (『新年の手紙』「虹色の渚から」)

 「病める生というものはない/生そのものが病んでいるのだ」という表現は、小林秀雄の「美しい花がある、花の美しさというようなものはない」などと似た形式の表現だが、この二つのフィギュール(あや)は、もちろん緩叙法ではない。一種の漸層法(クライマックス)的な強調の仕方だが、小林はさておいて、私には田村の言い方には緩叙法的な余韻があるような気がする。この表現には「救い」があるから。「病める生」の否定は「健康な生」であろう、そのようなありふれたアントニムを破壊するような認識がここにはある。「生そのものが病んでいる」ということが「健康」の見捨てられた、しかし重要なもうひとつの認識の側面であることを知らされる。「むこうから歩いてくる」裸足の青年のきらめく肉体。

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