2010年12月22日水曜日

go out in midwinter

八王子中央図書館で、
若島正の『ロリータ、ロリータ、ロリータ』(作品社)、平川祐弘『アーサー・ウェイリー 源氏物語の翻訳者』(白水社)、サミュエル・ベケット『ワット』高橋康也訳(白水社)、同『また終わるために』高橋・宇野邦一訳(書肆山田)、同『マーフイ』三輪秀彦訳(早川書房)を借りてきた。ベケットの本は陳列されていず、調べてもらって、すべて書庫から持ってきてくれたもの。遅れてきたベケット愛好者としては『短編集』(白水社)も読みたかったが、これはこの図書館にはないということ。都立のどこかの図書館にあるかもしれない、その本をこの図書館が借りることができるなら、貸し出すことも可能だというので、そのための手続きをする。アマゾンで調べたら、二冊ほどそれぞれ異なる古本屋が所蔵し、出品していた。値段は、なんと五万円近い。いくら好きでも、定年退職者には購入する元気をうちひしぐ値段である。そこで困ったときの図書館ということで、今日は外出したのであった。

それに今日はベケットの命日でもある(こういう想起の仕方をベケットは笑うだろうか)。1989年の12月22日、彼は83歳で亡くなった。それに加えて冬至の日か。イエスの磔刑の日4月13日1906年に生まれ、昼日の一番短い冬至に亡くなるとは、いかにもベケットらしい極から極の〈文学〉を象徴している。処女長編小説といわれる『マーフィ』(1938年出版されたが反響なし、1947年にベケット自身によるフランス語版が出て読み直されたという)の冒頭は、
「それ以外に方法がないままに、太陽はなにひとつ新しいところがないものの上に照り輝いていた。マーフィは、まるで自由であるみたいに、それに背を向けて、ロンドンのウエスト・ブロンプトンの袋小路の奥に坐っていた。」と始まる。このはじまりについていろんなことが言えそうだが…。

あくがれて今日まで待ちしベケット忌
日の下に新しきなきベケット忌
行くわれを低き日が嘲うベケット忌

書記典主故園に遊ぶ冬至哉   蕪村
穴八幡に札求めたり寒き日に
柚三個浮かぶ湯船に許されて
しわ深きベケット隠る冬至哉

2010年12月21日火曜日

another bus

青山真治の「ユリイカ」をケーブルテレビで観た。初めて。長かったが、(映されているすべてのものの)距離感(観)と物語と映像と色彩が、丁寧だがしかしどこか逸脱した脚本のグルーブ(ノリ)に乗って飽きさせなかった。終日陰鬱な雨、八王子は。

役所はいい役者だと思った。自分を消すことを、もう少し香川なども役所から学んだらどうだろうか。カラスの鳴かぬ日はあっても香川の出ない日は最近ないようだ。

土曜日(18日)で今年の仕事は終わった。それから、ぼーっとしている。

2010年12月19日日曜日

Little is left to tell.

昨日観た、トラン・アン・ユンの「ノルウェイの森」が夢のなかの出来事のようにすっかり忘れ去られてしまっているのに今朝になって驚いた。そういうことを狙った映画なんだ、原作もそうだったんだ、という驚くべき確認。

美しい映像、トラウマたちの、しのぎあいの物語。性愛の袋小路を生の倫理として生きなおそうというフラットな男のだれも傷つけない閉じられた妄想の世界、いやその一歩手前で映画は止まっているというべきか。「わたしはぬれたことがなかった」というナオコの台詞。トラン・アン・ユンの映画で一番美しいのは、そういうナオコとワタナベクンをあの時代のなつかしいアパートの窓のなかに閉じこめながら、永遠にわたるかのように降り続ける雨だ、ぬれた雨、しかし、この雨でさえ、いやらしいフォークソングの雨とはちがい、ぬれながらどこか乾いている、その雨の映像だ。

2010年12月2日木曜日

Twilight kingdom

昨日、久しぶりに歩く。午後3時半過ぎに家を出る。湯殿川には何本も橋が架かっているのだが、我が家から20分ほどのところにある橋は稲荷橋という。そこに三脚に固定した立派なカメラが四台くらい、ということは写真好きのおじさんたちが四、五人橋の欄干で西側の冨士を狙っているのだ。これは散歩の帰りにわかったこと。すさまじい夕日、私はまぶしくて俯いて歩いていく。いつもの目的地までで折り返して帰る頃には、これはまたなんという美しい色に染まった空と冨士だろう。マゼンダ色というのか、それが何本も帯のように、川のように、渦巻きのようにシルエットになった冨士の周りを取り巻いている。でも押しつけがましい色ではない。往くときには眩しかったのだが、復路には丁度時刻は4時半ころになっていたが、まぶしい黄金の光を吸いこんだせいで身体の底からその光の名残が朱とも赤ともつかぬ色で静かに発色し燃えているような西空を心ゆくまで眺めたいばかりに、私は振り返り、振り返り、しまいには後ろ向きに歩くことを繰り返しながら、ああ!とため息までつきながら先ほどの稲荷橋に着いた。カメラの人たちはまだいた。「冨士の真ん中に日が落ちるのです」という。まぶしくはないのですか?いえ、いえ。この日没直後の色は素晴らしいですね、と言って私はファインダーを覗き込んだ。先ほどの眩しい落日(冨士を真中から割って落ちるという)とこの落日後の光の名残たちが演ずるどこか切ない郷愁に似た色のシンポジュームがそこに映っていた。

2010年11月28日日曜日

Home Word

Home Word

TAIYO NAというニューヨーク在住の若い日系アメリカ人グループのヒップホップのCD "HOME:WORD" を聴いている。金曜日、千石氏の授業の特別ゲストとしてTAIYO(太陽)君と、弟の大地君が招かれていて、実際に彼らの話を聞いた。ニューヨークにおけるとくに日系の若いミュージシャンの置かれている差別的な状況など、そういうなかでヒップホップにこめるプロテストの意味など、はじめてで心に残る話だった。日本のいとこの結婚式のために来たということ、千石さんとは、彼の知り合いの中里さんというニューヨーク在住の画家(千石さんの話によれば、この夏、町田市立国際版画美術館で中里さんの展覧会があって、そのオープニングに中里さんは来日し、そして帰米するが、自宅で不慮の事故に遭い急死したという。)を介しての古い付き合いだということだった。千石さんが学生(大学院の授業だが)たちのために自分の授業に招待したわけだ。日本語も上手で、いとこの要望でその結婚式ではじめて歌ったという日本語の歌(「魔女の宅急便」のテーマソング?)をギターを弾きながら生で披露してくれた。これもすばらしかった。気持ちのいい若者たちだった。ニューヨークに来たら連絡してくださいとも言われた。

Asian Americanとしてのアイデンティティの問題、それが主なテーマのようだ。Bob DylanはNo Direction Homeと帰属を否定できるわけだが、彼らのように始終いろんな場面で、どこら来たのか?どこなのか?と問われ続けざるをえない場合、Homeを真っ正面から問題にせざるをえないし、そこから「歌」が生まれてきて、その歌はなにかとても切ない。
タイトルのHome WordはこれとHomeward(家の方へ)のpunになっている。

You tube にある彼らの代表的なアルバムを以下に紹介しておこう。








2010年11月23日火曜日

Rockaby

ベケットの"Rockaby"はマザーグースの"Rockabye, baby"の声をその奥にとどめている。たとえ、それが死にゆく老女の終わりの声と、柔らかな幼子を眠らせる声の響きの対照で際立っているにせよ。ベケットの"Rockaby"の終わりで、「声」が痛烈に言う、

fuck life(人生なんて、くそったれ)
このひとの目を閉じてあげて
rock her off(ゆらりゆらりこの人を眠らせてあげて)
rock her off(ゆらりゆらりこの人を眠らせてあげて)

マザーグースの"Rockabye, Baby"

Rockabye, baby, on the tree top, おやすみ赤ちゃん 木の上で
When the wind blows the cradle will rock; 風が吹けば ゆりかごゆれる
When the bough breaks the cradle will fall, 枝が折れれば ゆりかご落ちる
And down will come baby, cradle, and all. 赤ちゃんかごごと みんなみな落ちる







2010年11月15日月曜日

Ohio Impromptu

どうしてこう疲弊するのだろうか?辛気くさい、老人の繰り言か。

 ベケットの「オハイオ即興劇」を読む。何故か知らんが、ベケットのことが最近いつも気にかかる。なにも知らないのに。極北のようなものか、あそこまで行けば文学も根絶やしだろうと思うからかもしれない。とにかく最近、「文学」が嫌になってきた。詩もそうかも。小説は読む体力がない。リョサも借りてきたけど、ほったらかし。

 英語で読みたいけど、面倒くさい。アマゾンの古書の出品のなかに、ベスト・オブ・ベケット3(白水社)「しあわせな日々・芝居」があって、そのなかに「オハイオ即興劇」も入っていた。700円ぐらいだった。今日届いていた。読んだ。このわけのわからなさの快感。現実と虚構と芝居と分身と読むことと聴くことの、すべてが曖昧な影を帯び、画定できない境や閾が息づきはじめて、いやすべてが…、

 最初に読み手は聞き手に向かって「語るべきべきことはもうほとんど残っていない。これを最後の…」と始まるテキストを読むのだが、これが舞台上の二人の役者(reader とlistenerという役柄)によって演じられる。この二人は区別不可能なほどに似ているという設定がある。聞き手は机の上をノックすることにより、朗読の部分を後退させたり進行させたりする。

 そのテキストの内容は、聞き手に対する誰かからの(聞き手が愛して、別れた人)メッセージのようでもある。その話は聞き手の経験のすべてがそこに記録されたもののようでもある。しかし読み手もすべてを理解して読んでいる、一つの身ぶりは、これは間違いないな、と言いながら、本を覗き込むのだが、これは間違いないな、と書かれているそこを読んでいるのである、そういう身ぶりがある。自分が書いたものを確認することの、その文字が、そのとおりそのページに書かれていて、それを読んでいるという仕掛け。

 その読まれるテキストの中の印象的な部分、
「川の二つの腕は、なんと喜ばしい渦を巻きながら相混じり、相抱いて流れ去ることか」、これには訳者(高橋康也)の注釈があって、「ベケットには珍しい抒情的エロティシズム」とある。

最後の部分で読まれるテキストの内容、それは読み手と聞き手の「今」を語るものでもある、

「そこで例の悲しい物語がもういちどこれを最後に読み直され、二人はまるで石に変じたかのように坐りつくしていた。ひとつしかない窓からは、夜明けの光も差さなかった。外の通りからは、ひとびとのめざめる物音も聞こえなかった。それとも、ゆえ知らぬ思いに耽っている二人の男にとって、それらのことはどうでもよかったということなのか?朝の光とか、めざめの物音などは。いかなる思いか、知るよしもない。思い?いや思いではない。心の深き淵だ。故しらぬ心の深き淵に沈んで。心呆けたる深き淵。いかなる光も届きえぬところ。いかなる物音も。かくして二人はまるで石に変じたかのように坐りつくしていた。例の悲しい物語がもういちどこれを最後に読み直された」、

注意、これはその読まれる物語であるということを忘れるな。この芝居の二人の訳者への言及とまがうこのテキスト、テキストと舞台上の区別が一気に混同される。

そして最後、もちろんこれもその読まれるものに書かれている内容を読み手が読む、

「語るべきことはもうなにも残っていない」、もう一回、この台詞がある。

そして最後のト書き、

―― 二人は同時に右手をテーブルにおろし、顔をあげ、互いに見つめあう。まばたきをしない。表情のない顔。十秒。 溶暗。――

「考え、いや、考えではない。こころの深み。どんな深みだか誰も知らないところに沈められ。こころの、ではない、こころのない深みに」(...profounds of mind. Of mindlessness.)
というような訳もある。こちらの訳のほうが好きだ。

2010年11月1日月曜日

佐藤泰志・国分寺・海炭市

11月3日(文化の日)、国分寺駅8階のエルホールというところで、『佐藤泰志ゆかりの国分寺で海炭市叙景に出会う』というタイトルのイベントが午後2時から開催されます。

 佐藤泰志はご存じの方も多いと思いますが、すぐれた小説家で、痛みと歓び、無残さと救いが同居したようなすばらしい光と影に満ちた青春の小説を多く書きました。
 かれの残した「海炭市叙景」という作品が、彼の故郷北海道函館の市民発のエネルギーの結集の賜物として映画化されたことはメディアなどの報道などにより耳目に新しいところです。佐藤が生前住んでいて、その作品の舞台にもしている国分寺で、この映画の応援を兼ねて、監督や出演者などのトークや朗読などを行います。詳しいプログラムは以下の通りです。あがた森魚さんはこの映画に出演しています。

プログラム

第1部/2時~2時45分
◆予告編の上映
◆俳優・キタイマコトさんによる
「まだ若い廃墟」の朗読
◆あがた森魚さんミニコンサート(赤色エレジー他)

☆休 憩/15分

第2部/3時~4時半
◆トークショー
出演/熊切和嘉監督
   越川道夫プロデューサー
あがた森魚さん
岡崎武志さん(書評家)
◆観客からの質疑応答
(会費は千円ということです)
詳しいことは、この企画の中心である井田ゆき子さん(泰志の高校の後輩)に。
TEL;090-7724-6311
 FAX;042-361-8728

 ぼくは佐藤とは面識がありませんが、佐藤の友人たちの一人木村和史の知り合いです。また佐藤が現在のようにまとめられてはいない「海炭市叙景」の1、2、3すなわち「まだ若い廃墟」「青い空の下の海」「冬を裸足で」を1988年最初に発表した雑誌『防虫ダンス』(加藤健次編集)に書いたこともあります。佐藤の海炭市叙景と一緒の号だったかは定かではありませんが。かれの長編「きみの鳥は歌える」などをリアルタイムで読んだことを思い出します。
 本来なら木村がこの会の司会をするはずでしたが、よんどころない事情でできないということで、ぼくが代わりにやることになりました。皆様のご来場をお待ちします。

2010年10月24日日曜日

湯殿川晩秋









土曜日の写真。

2010年10月20日水曜日

「頓死」の頓死



どのみち世界で
厳粛な破壊の儀式が始まったら
押潰されたヒューマニズムの声など役に立たぬ

だがみよ ヒットラーは死んだんだ
ムッソリーニも死んだ
スターリンも死んだ
毛沢東も死んだ
なのに この世はさっぱりよくならない

はてさて 七十年代も終わりですか
あとに残っているのは小者ばかりだから
世界はやがて筋萎縮性の痙攣を起こし
まもなく頓死するだろう

(後略)

と鮎川信夫は「独白(1979年年十二月某夜)」という詩に書いている。これを読んで考えるのは、この世界はなかなか「頓死」などということをしないし、むしろ「死んだ」とか「頓死」とかいうことが死んだし、頓死するしかないような道を、われわれは最後まで歩いて行くことしかないのだろうということだ。最後のない最後へ、でも毅然として背筋を伸ばして歩くということは、そう簡単なことではないだろうが。

今日の「歩く」、8㌔。6時はもうすでに暗く、先ごろまでの感覚とは違う。背中が痛んでいたが、今日はゆっくり歩く、すこし痛みがやわらぐ。ハードすぎたのだ。

奄美で大雨。父に電話したら、徳之島でも大変な大雨で、海沿いの本川があふれていて、山のほうに迂回させられて、やっと亀津から喜念に帰ることができたということだ。母は風邪ぎみ、だった。

2010年10月17日日曜日

私の病んでゐる生き物

昨日(10/15)の授業はプリントした詩が多かった。急いだが90分でも足りないくらいだった。反省。的確なコメントを寄せられると、作者は何も言えなくなる、そういう応酬があり、聞いていて面白かった。自作詩を発表させた後、作者にすぐコメントさせ、その後2、3名に批評させるやり方だと、作者の解説に縛られて、それですべてが終わってしまうという意見があったので、昨日は反対にしてみたのだった。でも両方のやり方で試みるのがいいと私は考えている。山村暮鳥、蔵原伸二郎、リルケ、ツェラン、(梶井基次郎、田村隆一)などの詩を紹介する。梶井は「ある心の風景」のなかの、

川の此方岸には高い欅の樹が葉を茂らせてゐる。喬は風に戦いでゐるその高い梢に心は惹かれた。稍々暫く凝視つているうちに、彼の心の裡のなにかがその梢に棲り、高い気流のなかで小さい葉と共に揺れ、青い枝と共に撓んでゐるのが感じられた。
「あゝこの気持」と喬は思つた。「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分或ひは全部がそれに乗り移ることなのだ」
喬はそんなことを思つた。毎夜のやうに彼の座る窓辺、その誘惑―病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、此処の高い梢にも感じられるのだった。

という大好きな部分をコピーして配布するつもりだったが忘れていた。こうして書き写していても、日本近代文学のなかで私小説が純粋詩に最も近づいた、いや最近のはやり言葉で言えば、クロスカップリングしたあとに生まれた未知の結晶体がここにあると言える。この感覚の切ないほどの凝集の頂上の不可視の部分に、女郎買いの陰惨な現実、性病の憂鬱が潜んでいる。(視ることと見えないことの対比、視ることの新しさの席捲と見えないこと、見ないこと即ち性の触れることの古さとの対比etc.)

授業を終えて、5号館から外に出たところで、千石先生に二年ぶりにばったりと遭った。
彼は今から授業。終わってから飲もうという話になって、私は図書館で時間をつぶした。ディープ池袋の片端を堪能した夜だった。それにしても千石さんのとびきり面白い話をサシで、しかもおいしくてチョウやすい居酒屋三福のホッピーや料理を堪能しながら、6時半から10時過ぎまで聴くことができたのは近来稀なる痛快事であった。そしてだ、私は千石先生の講義を来週から聴講することを許されたのである、というより私の方からそう決めたのである。講義が終わったあとの池袋居酒屋探訪の愉しみは言うまでもないが、次回はフォークナーの「八月の光」と小島信夫の「墓碑銘」を対比していろいろと考えるというのだから、その壮大さにまず眩暈がする。(千石さんによれば、その講義に出ている院生たちで、私の2008年の授業に出席していた連中が結構いるということだった。)
                     

2010年10月11日月曜日

秋の多義性

書き終わって、直す余裕があまりないほど、最近追い込まれているのか?そうではないが、樹木や雲が秋を告げているのを立ち止まって見たり、思ったりする心の余裕がというか、あまり好きな言葉ではないが「感受性」がほとんど壊滅状態にあるのではないかなどと、自らを省みて最近思う。

まず、あらゆる書き物の、そのそこに秘めている「自己宣伝」に飽きた。
その欲望がいとわしいものに思えて、その匂いを嗅いだとたん読む気がしない。
古典はまだいい、しかし現実に生きている連中で、しかもしょっちゅう書いている、いわゆるプロと称するもので、宣伝の悪臭を放つもの、それには我慢がならないし、そういう予感(先入主でもいい)があるから、とにかくいやだ。

秋の多義性、
こころと欲望はよく入れ替わる。

昨日、西荻ブックマーク。古本屋、音羽館の広瀬さんとも会う。こういうイベントを今回で46回も地道に続けてきたその実践に敬意を表する。そして、この会の前半で佐藤泰志の文学と人間について講演した福間健二の細やかで強さをも兼ねた「観察」もすばらしかった。泰志の二十回目の命日の日の、人々のあつまり。映画もでき、文庫も出た、あの世から泰志はなんと言うだろうか? 和史よ、どう思いますか?

2010年10月1日金曜日

グアドループに

返答と贈答の形式で


グアドループに。

風の吹く平坦な土地と森が生い茂る凸型の土地とを均等に隔てる境界に。

微笑がたわませる、その計り知れない気分に。

グランド=ヴィジ岬の断崖で風が浸食する灰色のマプー木に。

グアドループ住民のなかでおそらくもっともマルティニック的なデルグレスに。

潮が訪れない、数多くの隠れた入江(アンス)に。

双方の海岸で再開する、レザルド川とラマンタンに。

見事に生き抜いた、グランド=テールのヒンドゥーの民に。

絶対に涸れ尽きえない、ウアスー蟹に。

グアドループに、そして昔のライバルたちに。

ロランの若者たちが死んだように、ここで死んだ若者たちに。

シャトー岬の黄金の砂粒に。無限が君の踝を捉える、サン=タンヌに広がる遠大な海に。

農業労働者の最初の民族的組合に。

間違いなく憤死(マルモール)が叫んだ場所である、我慢の限界(マランデュール)と呼ばれる場所に。

ポール・ニジェールに。

クレオール語の詩人たちに、グオカ太鼓を叩く者たちに。

不思議なことに、蛇が一匹たりとも生き残らなかった島、グアドループに。





エドゥアール・グリッサン、Le discours antillaisより。(中村隆之 訳)

2010年9月26日日曜日

夏の足跡

9月第4週追い書き、19日西荻から八王子へもどる。卒業生の一人と久しぶりの飲み会。楽しかった。元気であった。
21日、渋谷に出る。八王子の市民である私はこの混雑に驚く。 寒い地方の、貧しくあたたかい人々の物語をベースにした映画の試写を観る。後半部はひきこまれていた。この原作を書いた作家は20年前の10月6日に自死した。
(その死を聞いて、そのときに書いた詩、)

曲線を下る (佐藤泰志の死を聞いて)

 雨に濡れた山の稜線について
 語ろうと思うが
 黙ってしまう
 隆起し
 そこにあり
 さらされ
 減っていく
 そのものについて
 ぼくは語ることができない

 岩を
 友とぼくは
 静かになだめた
 恐怖は時おり訪れるが
 謙虚に
 しびれるだけだ
 手に負えぬ巨岩の前で
 立ち竦むぼくに
 友は
 ホールドを示しながら
 「飛べ」と言う
 ぼくは飛んだ
 草つきに出て振り返ると
 水の音
 いつも流れているものにはかなわない
 歩くことを手向けて
 乾いた喉に
 ビールを流し込む

 曲線は秘密ではない
 減らされることに耐えている
 自らを裁つもの
 それは
 かなしい秘密
 語ることのできないものと
 語ることで死を呼び寄せるもの

 曲線を駈け降りる
 友に遅れまいと必死に
 出発点を目指す
 立ち止まると転ぶから
 曲線を蹴る
 その
 循環のなかに
 死者を葬るかのように

23日、ものすごい雨、びしょ濡れになる。岩田さんと二人で子安市民センター。「七部集を読む会」の二回目。ぼくの発表だった、「冬の日」の第二歌仙、「はつ雪のことしも袴きてかへる 野水」の巻。勉強不十分の成果を見せることになったのを悔やむ。精一がウイスキーとホッピー、氷まで用意している。大広間で飲みながら講読。終了してから雨の中を八王子の沖縄居酒屋へ。そこで泡盛の各種をグラスでほとんど飲みほしてしまったようだ。精一、岩田さん、小生、酒が嫌いなわけではない。そのことを実感する俳諧の雨ノ夜。

24日、午前中は二日酔い。それでも朝起きてシャワー。午後12時過ぎに池袋に向かう。10年度の授業の開始。控室も教室も変わっているので、それを確認するためにはやく大学に着いた。5号館になっていた。4枚ぐらいの原稿をそれぞれ60部ほどコピーして授業に持参。去年は足りなかったが、今年は50名ほどの受講者だった。

25日、小雨のなかを朝散歩する。約8㌔。帰って、由井市民センターへ、10月30日の七部集の読書会のための会議室を600円で予約する。精一も心配してジョギングのついでに来ていた。予約して帰る。寒気、悪寒、ダウン。国立の「詩のワークショップ」(福間健二・講師)休む。以下その課題として書いた詩、


(夏の足跡)           
                              

You TubeでBuena Vista Social Clubの
IbrahimとOmaraが歌うSilencioの哀切な、哀切という言葉を越えて
ベンダースが聴取したハバナの生(ムージカ・クバーナ)を
八王子の片隅の片倉の夜に
その他のCompay SegundoのChan Chanなど(のムージカ・クバーナ)とともに
再生リストに貯蓄のように貯めこむ、老人の習癖のように
すべてを鳴らしてみる、聴いてみる、その日のために?
でも、どんなその日がくるというのですか?(ミズスマシさん)
いつでも聴く、今も聴いている、私は聴きながら書いているのではないか
夏の死の、肉の腐乱の、懸念について
〈少女〉に訊ねられた
どの巻のどこ、どの人物のどの死?
「泡の消え入るやうにて」、「物の枯れ行くやうにて」死ぬ人のゲンジモノガタリagain
八月は秋、紫と中宮と源氏の聖家族の三重唱
「風にみだるる萩の上露」に腐乱はない、ないはずだ、消えゆく露のように
死んだ紫の〈少女〉のときの弾む声が響くムージカ・クバーナ 
その声の肉に腐乱は予兆としてあったというのか 
夏の入口/高原できみを追い回し/立原道造を気取る
ブルースもディランもSilencioも知らんかった裸の日々
生と夏をただ秤にかけて
草いきれのなかで、虫のようにミミズのように座っていたかった
〈少女の〉悲しい目はきみの未来永劫にわたる欺瞞をこそ予想していた
川面をなめながら鋭く飛行する
水色、緑色の一瞬のきらめきを翼の間に隠しもつ生きもの
川底にはきみをあざける太った鯉たちが尾びれを利息のように引いて長生きする
「ああ!」
「疲労困憊(セグンド)の私はハバナに行きたいのです!」
その日のために
ピンと誇らしく鯨のジャンプのように背筋の伸びた老人たちに会いに行く日
果てしなく前に開けては後に閉じる河筋を
その闇の奥の奥へと、問題はそこにつきるのでは? ないよ!
分け入ることだ、そこうと思い悩むまえに溯行するのだ、下流へと下流へと
知らんかったSilencioの二重唱は何をこじ開けているんか
老いらくの来るという河の上流ではなかった
夏がいやがっている
熱中症の老人たち、苦しい毛の猫たち、恋の記憶と過去とを読みまちがえている
果てしなく前に閉じては後に開ける嘔吐と恥(オント)
背と腹に眼を持つというミズスマシさん
暑い夏をひたすら瞑目して瞑目せり
冷たい静寂が下りると、やがて朝が来る(肉の腐乱が来る、と訂正せよ)
10/09/21
 

 

2010年9月20日月曜日

詩の小径をたずねて

 三鷹駅で総武線に乗り換え、西荻で降りる。西荻窪は久しぶりだった。そこから東女を目指して歩き、善福寺公園に出た。昔々、杉並高校に勤めていた頃、この場所ではないが成田東にあった学校そばの善福寺川堤防緑地でクラスの生徒たちとホームルームの一時間を遊んだことなどをゆくりなく思い出した。
 公園に入って、若い父親、母親たちの一団がそれぞれの子供たちを連れて弁当を食べている、そこを抜けてすぐ「詩の小径をたずねて」が開かれている白い洋館風の家があった。三日間のセッションだが、今日は「詩の女子トーク」と「辻征夫の肖像」というタイトルで2部制の、その一部の「詩の女子トーク」を聴きにやってきたのだった。他の用事があったので、それしか参加できないというのが実情だったが。
 
 はじめてその声(朗読)を聴き、他の詩人が読むその人の詩を私がはじめて聴いた詩人、鳥居万由美、清水あすか。そして新詩集を頂戴した北爪満喜さんもそうで、彼女の犀利な批評(参加者が互いの詩を批評したり、自作についての質問に答えたりする形でのトーク)に感心した。鳥居と清水の詩にも驚いた。あとは三角みづ紀、新井豊美、杉本真維子の三名。新井さんや杉本さんと話をする暇もなく5時過ぎには善福寺公園を後にした。

2010年9月13日月曜日

Walk Don't Run

山の上から帰ったのが、4時前。今日は、三時間の授業がある日。三年生は昨年の入試問題、ロラン・バルトなどを援用した記号分析の文章で、同志社の問題。表象や記号等という言葉の解説などをやらかす。二時間目は、「こころ」二年生。三時間目は王朝の和歌、二年生の古文。頭はくるくる回るが、なんとか昏倒しないで授業を終えた。
 
 終えて職員室に戻ったらA先生から素晴らしいプレゼント。この夏山形に行ったということで、「錦爛DEWA33 秋あがり 秋季限定品」という純米吟醸の720ml壜を頂戴する。しかも保冷してあるので喫驚した。

 4時20分から妻と歩く、その後いつものように(最近はそうしている)一人でスコシ走る。最後に城趾の池の前で合流する。歩く前に、いつも発泡酒を二缶冷蔵庫に冷やして、その幻影をにんじんのように幻視しながら歩いているわけだが、今日は一缶だけ入れて、プラスA先生から頂戴したお酒の壜を入れた。なんか心が非常に豊かになったような気がし、王侯貴族のような気分で鷹揚に歩いた。今その酒を味わう、その美味なること、老いらくの来むといふなる道、まさに、まがふがに、である。いやこうして老いるのだ、確かに、その美味に溺れて。

 今、Chet Atkinsの "Walk Don't Run'が鳴っているぞ。youtubeから彼を拾って再生リストに入れて最近聴いている。ベンチャーズの"Walk Don't Run'もいいけど。ああ、団塊だなあ。
 

2010年9月12日日曜日

Vincent

久しぶりに聴いて、やっぱりいいと思うDon Mcleanの古い歌。



これを名手Chet Atkinsが弾けば、

2010年9月7日火曜日

something the matter with us?

午後4時半から歩く。どうして今まで考えなかったのだろうか。道中の途中で、妻と離れて先を急ぐことにした。互いの速さが合わないので、ぼくのほうが自分のスピードで、自分の距離を歩くことにした。妻よりも遠くへ、妻よりも速く歩くことにした。妻の帰路のどこかで僕が後ろから追いついて合流することにしたのだ。妻は7キロぐらい歩く、ぼくは走りを入れて9キロぐらい、片倉城趾の池の所で一緒になることを計画して、今日実践してみた。池の前の湯殿川の堤防でハーハー息を切らせながら、ぼくは追いついた。妻は足の親指の具合がここ数日悪い。休めば、とぼくは言うのだがきかない。親指の調子がよかったら、あなたは私をここで追い抜けなかった、と言いたいようだった。ぼくはすっかり疲れて、いい気持ちだった。

2010年9月6日月曜日

Walker's high

9/1 (9.5㎞)
9/2 (8.3)
9/3 (9.0)
9/4 (9.0 )
9/5 (7.7)
9/6 (8.2)
 
9月からは、午後5時頃から歩き始めて、7時頃に帰宅する。妻は庭の花や木に水をあげ、私はシャワーを浴びる。その順番が逆なときもある。
 妻は9月の2日から歩きはじめた。二人で湯殿川の堤防を往復するのが日課、水源までは行かない。水源がどこかは私も知らない。2日、妻の歩き始めの日に、大きめのカワセミを発見する。
5日の日はあまり距離的には歩いていないが、6日の仕事始めを意識して、夏休み最後というノリで歩き出し、家に帰ってシャワー、猫の給餌を終え、二人で駅前の「養老の滝」にくり出す。生ビールのおいしかったこと。私は連続三杯、普段飲まない妻がおいしいと言って一杯を飲みほした。久しぶりの養老、それに久しぶりの満席状態で、顔見知りのお店のSさんに 「よかったですね」というと満面の笑みだった。珍しいことに、団体客が入っていて、先ほどもう一つの団体が帰ったのだという。なんか祭りでもあったのか。
 昨晩入稿する。それでホッとしたのか、今日はやる気がない。仕事から帰ったのが、3時半すぎ。4時半から二人で歩き始める。昨日は五時半だったので、真っ暗な道を帰ったのだが今日は大丈夫。それにしても確実に暮れるのがはやくなった。

twitterで娘が写真を送ってくるようになった。Omarと二人でジャクソンビルのビーチ(大西洋)に行ったとのこと。

逆立ちで海辺を歩くOmar

 
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2010年9月1日水曜日

闘牛

 
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息子のtwitterの写真から。徳之島の闘牛。説明によると、まだ試合デビュー前の牛らしい。優しい目をしているね。
考えてみれば、強くもないし、戦う気持ちもなかったけど、追い立てられて、私も闘牛と同じような生を歩んできたのか、歩まされたのか。

9月か。はやいな。

2010年8月30日月曜日

泉重千代翁

 今朝の、永久歩行者(見習い)の歩行記録。11キロ余り、130分ほど。感想、ウォーカーズハイ寸前、または熱中症寸前。
 道中「みみず」の屍体多きを観察す。土中の熱さに耐えかねてそこより脱出せんとするも、地上のアスファルトの更なる熱に焼死せしものならん。帰りてシャワー。計量器に乗る。昨日より寸毫の減量ならんか。
 
 『思想』9月号ほとんど読了す。ともに沖縄出自の仲里 効と前嵩西一馬の論考の対照的なるを面白く思う。「どっちもどっちだ」というシニカルな思いもわくが。アンティーユ諸島の去年のゼネスト、そのときに出されたグリッサンらのマニフェストが「高度必需品宣言」だが、これを一番理解し、冷静にわれわれに伝えようとしているのは、これを訳出した中村隆之である。わたしは彼の、この宣言の背景としてのアンティーユ、とくにマルティニックの歴史、経済の解説を何回となく読んだ。そこから考えていきたい。安易にフランス海外県の置かれた状況と沖縄のそれとをと結びつけないことが大切だと私は思う。

 八月の30日は、高尾山のビアガーデンでいつも飲むことになっている。昔の同僚たちの自然の取り決めだが、今日は私と友人の二人だけだ。みんな忙しいのだろう。でも二人は楽しく飲み食べた。これにまさるものはない。
 
 帰宅すると、息子のTwitterの写真が待っていた。息子夫婦は私の両親、息子にとっては祖父母のいる徳之島に今滞在している。今年の6月に結婚したのだが、彼の嫁さんを祖父母に披露するという旅でもある。今日着いたのだが、じいさんやばあさんも大喜び、いろいろ連れ回しているらしい。その途次の写真で、泉重千代翁のもの。私はこれを知らない。見たことがなかった。本当に立派で堂々とした像だ。願わくは「超越高齢者」たちのすべてがかくのごとき尊崇を受けんことを!

 
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2010年8月29日日曜日

噴火

 
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ベスビオではなく、桜島の噴火。
先ほど息子がTwitter上にアップロードしたものだが、この凄さは地域の人たちには
毎度のこことは言え、大変なものだろう。静まれ、桜島よ。

今朝の散歩、10キロ。ここ数日10キロ歩く。さすがに疲れるが、やせ我慢が意地みたいなものに爆発した。
(何に対する?)

今日から、原稿書きに突入する。orつもり?

2010年8月28日土曜日

反情報

 Skypeなるものをはじめた。アメリカ在住の娘とそのパートナーと、日と時間を決めて、今まで二回ほど対話した。ビデオ電話。よく宇宙から手を振りながら誰かが喋っている映像をみた、それを相互に、この地球上で実演しているようなものだと最初は思った。しかし違っていた。話している間、ずっとこちらの日常、あちらの日常もビデオに静かにながれていて、それを見るともなくお互いが見ている。ぼくたちが喋っている、その後ろを我が家の王である猫(人間)アトムがのそりと通過する。それを娘が見て「ああ、アトちゃん」と呟く。きわめて日常的で、そこがジャクソンビルで、ここが片倉という距離など、あっという間になくなってしまう。だからどうだというのではない。

2010年8月24日火曜日

Every cloud has a

 湯殿川を西に向かって、その源の方へ歩くのだが、午後5時過ぎ、大きな入道雲がそれだけ一つ西空の半分近くを占めて、それに向かって歩いて行くぼくを睥睨している。輝く夕日が、その大きな塊に遮られている。でもその輝きは、ぼくの見ている大きな雲の縁にはみだして、そこが沈んだ金色ににじんでいる。"Every cloud has a silver lining."
 
 縁で田んぼが輝いている。都会と都会と都会の縁で…。対比するものなどすべてないのだが、その道は湯殿川によって分けられている。川のなかにはコンクリートの堰がある、両岸が作られ、葦や名を知らない草が密生し、それが中州を作っているところもある。カワセミを見る日とそうでない日。
 「周縁」と書いて終焉するわけにはいかない。どこかで生きているのかもしれない。

「クレオール」とはなんだろう。歩きながら、切れ切れに浮かぶ思念の一つ。定義できないものに囲まれている?そうではなくて、定義を誘うひと欠片の魅惑もないものに囲まれて、その草としか言えないもどかしさの豊穣から無縁な、ありふれた(和音)の……

 運動だ。絶えざる感情の色、時間の堆積を破砕する(不協和音)、きみの吹くカワセミの色、すばやく空から落ちて、水を狩れ!

 藍色のムードだとすぐわかる、ムードの日。言い忘れたことがある。百日紅の咲き競う道の近く、16号道の交差点で小さな亀が轢かれていた。片倉城趾公園の池のなかで生きて、歓びのコミューンを作っていた亀。そこからぼくの足で2分もしない交差点、きみは何時間かけて、この激しい交通の、その中心で、きみの甲羅を無残に押しつぶされるために、歩いてきたのか?

2010年8月19日木曜日

Te Deum

Te Deum
       Charles Reznikoff(1894 - 1976)
Not because of victories
I sing,
having none,
but for the common sunshine,
the breeze,
the largess of the spring.
Not for victory
but for the day's work done
as well as I was able;
not for a seat upon the dais
but at the common table.

賛美の歌

勝利ゆえに僕は
歌うのではない、
勝利などひとつもないから、
ありふれた日光のため、
そよ風のため、
春の気前よさのために歌う。
勝利のためにでなく
僕としては精一杯やった
一日の仕事のために。
玉座のためでなく
みんなのテーブルの席で。

Paul Auster 「空腹の技法」(柴田元幸/畔柳和代 訳 )より

 Paul Austerの"The Art of Hunger"を眺めていたらCharles Reznikoff(チャールズ・レズニコフ)というユダヤ系(a jewish-American)の詩人についてのオマージュめいたエッセイ(タイトルは"The Decisive Moment")があった。
 その終わりに、私にもよく理解できて、そうだよなという感慨が自然に吐露される詩があった、その詩。

2010年8月17日火曜日

夏相聞

○「釋迢空歌集」から、「夏相聞」というタイトルのついた短歌を抜き出してみた。

ま昼の照りきはまりに 白む日の、大地あかるく 月夜のごとし
真昼の照りみなぎらふ道なかに、ひそかに 会ひて、 いきづき瞻(まも)る
青ぞらは、暫時(イササメ)曇る。軒ふかくこもらふ人の 息のかそけさ
はるけく わかれ来にけり。ま昼日の照りしむ街に、顕つおもかげ
ま昼日のかがやく道にたつほこり 羅紗のざうりの、目にいちじるし
街のはて 一樹の立ちのうちけぶり 遠目ゆうかり 川あるらしも
目の下に おしなみ光る町の屋根。ここに、ひとり わかれ来にけり

  「海やまのあひだ」1925年(大正14年)発行。1904年(中学時代)から25年までの作品691首を収録所収

あかしやの垂(シダ)り花(バナ) 見れば、昔なる なげきの人の 思はれにけり
ひそかに 蝉の声すも。ここ過ぎて、おのもおのもに 別れけらしも
あかしやの夕目ほのめく花むらを 今は見えずと 言(コト)に言ひしか

  「水の上」1948年(昭和23年)発行。1930年から35年までの作品468首を収録。

○同じく「釋迢空歌集」から、「夏」(夏の季節に詠まれたものも含む)の歌で、好きなものを抜き出してみた。

沖縄の洋(ワタ)のまぼろし たたかひのなかりし時の 碧(アヲ)のまぼろし
夏の日を 苦しみ喘ぎゐる時に、声かけて行く人を たのめり
裸にて 戸口に立てる男あり。百日紅の 黄昏の色
道のべに 花咲きながら立ち枯れて 高き葵の朱(アケ)も きたなし
   「倭をぐな」1955年発行 より

庭暑き萩の莟の、はつはつに 秋来といふに 咲かず散りつつ
夏山の青草のうへを行く風の たまさかにして、かそけきものを
   「水の上」より

夏海の
荒れぐせなほる昼の空。
われのあゆみは、
  音ひびくなり

気多の村
若葉くろずむ時に来て、
 遠海原の 音を
  聴きをり
「春のことぶれ」1930年発行より、1925年から29年までの501首を収録。

青うみにまかがやく日や。とほどほし  妣(ハハ)が国べゆ 舟かへるらし
天づたふ日の昏れゆけば、わたの原 蒼茫として 深き風ふく
馬おひて 那須野の闇にあひし子よ。かの子は、家に還らずあらむ
なむあみだ すずろにいひてさしぐみぬ。見まはす木立 もの音もなき
谷風に 花のみだれのほのぼのし。青野の槿 山の辺に散る
緑葉のかがやく森を前に置きて、ひたすらとあるくひとりぞ。われは
糸満の家むらに来れば、人はなし。家五つありて、山羊一つなけり。
処女のかぐろき髪を あはれと思ふ。穴井の底ゆ、水汲みのぼる
山深く われは来にけり。山深き木々のとよみは、音やみにけり
夏やけの苗木の杉の、あかあかと つづく峰(ヲ)の上(ヘ)ゆ わがくだり来つ
   「海やまのあひだ」より

いろいろ考えることもあるが、まとまらない。「夏相聞」の連作は、藤無染との別れの記憶が沈んでいる。「水の上」歌集のそれも同じかもしれない。富岡多惠子編の岩波文庫の「釈迢空歌集」は読みやすい。

2010年8月15日日曜日

高尾山

高尾山薬王院にて、
Troy family
 
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昨日、Troy,Vanessa夫婦,その娘Madelineと我ら夫婦の五名で、ミシュラン三つ星なる高尾山へお参りした。というよりは、実情はここにあるビア・ガーデンにお参りしたわけだが。すさまじい人で、満員なので整理券が配られる。280番台である。そのときは三時前。一時開場である。案内の人に訊くと、四時頃に、我々は入場できるのではないかという。そこで、お寺に参詣したりして、ゆっくりとまたビアガーデンに戻ってみると、これはまたもうどうしようもないほどの混雑。とっくに我々の番号を経過して、今や新しく20番台の呼び出しではないか。まあ、いろいろあったが、なんとか泣きついて4時半ごろには入ることができた。その時点から2時間限定のeverything you can eat and drink?のはじまり、はじまり。

 
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2010年8月14日土曜日

〈高度必需〉とは何か――クレオールの潜勢力

8月13日(金)
国立ロージナ。宗近夫妻、添田夫妻、瀬尾、雨矢、水島、計7名。宗近(「ポエティカ/エコノミカ」白地社)、添田(「吉本隆明 論争のクロニクル」響文社)両君のささやかな出版記念会。瀬尾さんがお二人にすてきな祝いの品(ペイパー・ウエイト)も用意してくれていた。いろんな話。「即自的悪」(添田さんの本にある言葉)をめぐって。「宗教性」をめぐって。「ホメオパシー」をめぐって。「メディアの無意識」をめぐって。日本は一年足らずで首相が交代するのも、天皇がいるからという無意識が、メディアの無意識としてあるから、あんなに世論調査で操作して、バタバタやめても平気なのだ云々。鳩山の問題を「言行不一致として、Mさんはとらえているなら、それはおかしい、それぐらいでアレントを持ち出してはだめだ、不一致でいいじゃないか、それを支えることを考えるべきだったのに、福島は一番だめだった、現実を追認するだけでは政治家ではない云々」。これはぼくへの痛烈な批判。久しぶりにゆっくりと話をしたような気がする。宗近さんからフランス土産、フォアグラの缶詰をもらう。彼は月曜日にパリに戻るとのこと。会の前に増田書店で富岡多惠子編「釋迢空歌集」岩波文庫を求む。

8月12日(木)
今年就職した教え子と飲む。蒲田の独身寮からお盆休みで八王子の実家に帰ってきた、一杯やりましょううれしい誘いがあった。八王子の南口の沖縄料理屋で飲む。彼は「ティーチ・イン沖縄」などを学生時代に主催者側としてがんばってやってきて、沖縄に寄せる思いは並々ならぬものがある。というわけで沖縄料理屋というわけでもないが。
会社(M総研というシンクタンクのようなところ)の話、今は研修期間のような勤務態勢だが、10月頃からは海外への出張なども含めて忙しくなるだろうということだった。飲み終わって勘定の時に私に払わせなかった。そのつもりで誘ったとのこと。ただ、うれしかった。

もう一人の教え子(高校が上記の子とは違う、年齢もこの教え子の方が上である)は中村隆之といって、今パリで研究生活を送っている。フランス文学のドクターで、専門はフランス語圏or県のカリブ島嶼のクレオール文学である。とくにエドゥアール・グリッサンの研究をしている。マルティニックに昨年一年滞在して勉強し、そこでグリッサンとも直接に会ったりもしている。その日録は中村のblog「OMEROS」http://mangrove-manglier.blogspot.com/で読むことができる。ところで、彼のそのblogによれば、岩波の雑誌「思想」の9月号(八月下旬発売)の特集に深く関与していることがわかる。教え子のために宣伝したくて書いているのだが、以下彼のblogからの引用。

去年の1月から3月までグアドループ、マルティニック、レユニオンで行われた長期ストライキは、ぼくにとってはちょっとした「事件」だった。何しろその翌月からマルティニック滞在をする予定でいたのだから。ぼくが到着したときには島はもう平穏を取り戻していた。だが、ゼネスト後の不穏な雰囲気はまだ街中に漂っていた。フォール=ド=フランス市街のスーパー「カジノ」は放火で閉店したままだったし、バスの中では運転手への強盗未遂も目撃したこともあった。この場所で起きたことを追想しようとしていたときに、ぼくが手に取ったのがエドゥアール・グリッサンやパトリック・シャモワゾーたちが書いた小さな小冊子だった。難しい文章だったが、グアドループやマルティニックの「今」を伝えると共に、知られざるこれらのフランス海外県の島々が抱える問題を日本で紹介するには、この文章はうってつけだと思った。その後、ご縁があり、『思想』をご紹介いただいた。最初はこの文章の翻訳を掲載するという話だったが、話が膨らみ、ついには特集企画という話にまで発展したのだった。その企画がついに実現し、9月号に掲載される運びになった。特集タイトルはグリッサン等の小冊子の題名にちなみ、「〈高度必需〉とは何か――クレオールの潜勢力」となる予定。一見何のことやら分からない題名だと思うが、彼等の文章を読めば、納得のゆくものであると思う。グリッサンの1981年の大著『アンティーユのディスクール』の部分訳ほか、カリブ海・沖縄・台湾を群島的に結びつける力作評論が揃っている。ぼくもまたマルティニック滞在を活かした論考を準備した。8月25日に発売の予定。お手にとってご覧ください。よろしくお願いします。


私はわくわくしながら発売を待っている。みなさまも今年の夏の最後の読書として、多分未知のフランス海外県の小さな島々の大きくて痛切なうねりを浴びてみてはいかがでしょうか。ここで出された問いはマルティニック諸島をこえて普遍的なものであり、この日本という先進国の核にある諸問題の解決への希求を励ましてくれるものであることを私は確信している。

2010年8月10日火曜日

Job disconsolate

 東京藝術大美術館「シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い」を観にゆく。マルク・シャガール(1887~1985)の70点ばかりとロシア・アヴァンギャルド(カンディンスキーも何点かあった)の画家の作品40点ほど、すべてパリのポンピドー・センターの所蔵作品からの展示で、このコンセプトも そのセンターのアンゲラ・ランプ学芸員の企画という、すべて丸投げのような展覧会である。シャガールは白ロシア(ベラルーシ)の町 ヴィテブスクの貧しいユダヤ人街に生まれた。20歳の時、そこから脱出するかのように首都サンクトペテルブルクへ出て美術学校に行く。そのあと画家としてフランス、アメリカで名声を獲得する。

 ランプ学芸員は「シャガールは生前、「ロシアとの関係を切ったことは一度もない」と言っていた。シャガールとロシアの作家たちの作品の類似性や違いを知れば、これまで以上に深くシャガールの作品を鑑賞することができるはずです」と語っている。

 彼の絵は東欧ユダヤ人としての生い立ちと旧約聖書のモーセを始祖とするユダヤ教的世界(彩色リトグラフ連作『出エジプト記』など)を含めての聖書的絵画テーマに深く浸透・影響されているので、その色彩のすばらしさに感嘆するだけでは、その絵に込められたカバラ的な神秘性を解くことは出来ない。本当に彼の絵はわかるのか?とてもわかりやすそうに見えるが、その表現の独特のスタイルが示唆するのは、私には奥深い宗教性のように思える。ユーモアのある筆致や妻や家族への臆面もない愛情の表現などから結構現代的なヒューマニストだと見られているが(もちろんそういう側面を否定はしない)、彼の根底は父祖たちのユダヤ教の世界と結びついているのではないか。次の絵は、この展覧会の展示ではないが明るいシャガールの背景にはこのヨブ的な嘆きもある。これは私の偏見かも知れないが。

Job Disconsolate
 
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ロシアとロバとその他のものに(これは展示されていた。初期の代表作で、題名はフランスの詩人B.サンドラールが付けた)

 
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2010年8月9日月曜日

a part of speech

 広島、長崎の平和記念式典が終わった。そこで出された日本国首相の声明に本当にがっかりした。それぞれの市長たちの心のこもった志の高い演説に比べることなどできない。実際の被爆地の市長としての核廃絶に対する積極的な提案、なかでも唯一の核兵器被爆国として非核三原則の法制化などを鋭く今の政府に迫るものだった。それにしても、まずもってこの国の首相が、しかも政権交代後の首相として、これぐらい(非核三原則の法制化)はぶちあげてもおかしくないのにという思いが私にはあったが、正反対に核の抑止力などを肯定してしまうという、今はもうありえないだろうと私は思うのだが時代遅れのリアルポリティックスぶり、チョウ低温ぶりに、非常にがっくりした。ルース大使なども参列しているのだからここで理想をなぜ揚言できなかったのか、菅首相よ、いやその参列に遠慮したのか?あなたは、もぐらのような状態になっているが、こういう首相は案外長く持つのかもしれない。それが広島、長崎のみならず国民のためにどれだけのことができるかはわからないけど。石破などに野党の時は迫力があったなどと揶揄される始末だから心許ない。それにしてもだ、政権交代って本当にあったのか?

  これから少し暇になる。

 (今までのこと)を少しまとめておこう。
7月29、30と稲取に行った。
7月30日の夜、東の昔の同僚たちと立川で飲む。
7月31日、日本蛇行協会例会

稲取へ(雨の海、車中から)
 
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下田駅前
 
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片瀬江ノ島弁天橋から
 
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2010年8月5日木曜日

旅人あはれ

 今日のテレビのニュースから。nhkの7時のニュースだったが、トップニュースになっている最高齢者たちの「存在の不確かさ」についてのものだった。今朝の新聞の川柳欄(朝日川柳・西木空人選)に「宿六は確か隣に昨日まで」(茅ヶ崎市・齋籐富枝)という傑作が載っていた。長寿不明者について語られるすべての文脈は、煎じ詰めれば「共同体」の崩壊 、社会の相互補助のシステムの崩壊に帰結される。これとは現象面は異なるが、子どもへの虐待でも次のように語られる、江戸時代を見よ、あれほど子どもたちが大切にされた時代はなかった、それに比して「共同体」「社会」そのものの崩壊が帰結しているひどすぎるネグレクトとそれにも増す社会や行政のネグレクト(いやイグノア)を見よ!そういうところに落ち着くだろう。私は長寿で有名な奄美の出身だが、考えたとおり、今日のニュースでは、百歳の美しい奄美の女性とその娘を出して、日本国で今流行の「長寿不明者」の、それをつくるにいたった家族間や社会のモラルの欠如を暗に批判するような演出の仕方で放送された。つまり、奄美では長寿の人々は、みな尊敬され、その人々に会うことは「拝む」ということばで表現されるほどのものである云々。私もこれには経験がある。私たちは確かに「拝む」と言ったし、そして年寄りを尊敬していた。

 私は何を言いたいのか。死者を生者と見なす究極の平等?逆に、生者を死者と見なす究極のネグレクト?いや生も死も差別はなくみな平等なのだという超越的な観念?それらから見れば、行政の無策もどうということはない、ということを言いたいのか。家族と社会一般の問題にしようとしているメディアの、あるいは行政のやりかたには同意ができないだけだ。それはトートロジーになるかもしれないが、家族や社会が崩壊していることの痛みを、これらの解説者・告発者たちは抱えていないからだ。「30年来、母には会っていません」!

私は何を書こうとしているのか。国谷裕子さんの番組(「クローズアップ現代」)も見た。ここでは広島原爆の「黒い雨」の被害地の拡大が、科学的な研究によって実証されつつあることが説得的に述べられていた。後続の若い科学者たちの地道な研究によってだ。原爆の被害と残虐さの「語られ方」の飛躍的な向上(あえて書く、もっと適切な言葉もあるかもしれないが)を私は見た。明日は、「敵」を殲滅しようとして、「敵」の国の一部である広島に未曾有の無残きわまりない破壊力をもった原爆を「アメリカ合衆国」が落とした日から65年になる。

年寄りたちは行方不明を望み、若い人たちもモラトリアムを望むしかない……
そうではないだろう。

 自ら名を隠さざるをえない理由をかかえて、それがたいしたことでもない場合があったかもしれないが、「社会」から出奔し旅に死んだ人々もいた。現在の役所はそういう人を「行路死亡人」というカテゴリーでくくっている。ホームレスの人たちか?「旅に死んだ」というのは、故郷以外の土地に死んだという意味が原義である。しかし、今や、故郷も、旅も、その意味と含意をことごとく失ってしまった。
 
 万葉集に聖徳太子の歌がある。これは推古紀の説話と同種のものである。

  家ならば妹が手をまかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ (V3・415)

 すべては、こういう真率なシンパシーからはじまるのではないか、その欠如の地獄図もふくめて。

2010年7月28日水曜日

わが祈り

今日も充分に暑かった。この間、俳諧関係のことを少し書いたが、それに対して解酲子兄から大切なコメントがあった。それをまず、ここに再録しておく。何に対するコメントかも書くべきだろうが、自分の備忘録のつもりなので、それは省く。

(その一)
―ぜんぜん厳密な話ではないのですが、少なくとも杜国句の主体というか主格を、前二句と同じとすると、重大な打越嫌いにはなると考えられます。安東次男の『芭蕉七部集評釈』には、「一見、打越以下三句にわたって同一人物(姉なる人)の心理、動作が続くようだが、のこしてきた妹の上を思いやりながら湯を使っている人の、これは想像中の情景と見れば転じは悪くない」とあるけれど、これは不徹底のそしりを免れ得ないでしょう。いま手元に見当たらないのでどうとも申し上げかねますが、安東ののちの『風狂始末』においては、自他ということを中心に、それまでの彼の「読み」を組み替えているようです。
また、190において、籬がほとんど俳諧に稀だというのは、ご指摘あって初めて気づきました。似たようなものでは斎垣(イガキ)、瑞垣(ミヅガキ)などが見受けられますが、これらは目立ちにくいけれどあきらかに歌語やそれに準じるものです。これに類することを含め、神祇釈教に神経質な「俳諧」というものの、ある側面を思わざるをえません。
ちなみに、蕪村では句中に籬の語は見つけられないものの、れいの「うぐひすのあちこちとするや小家がち」の詞書に「離落」とあって、これは、「籬落」(まがき)であるとする註が、岩波の蕪村句集にあります。これなど、あきらかに詩(漢詩)の世界を句中に取り入れたものですが、さてこれが歌語と無縁であるかどうか。和漢朗詠集など見ても、なかなか俳句・和歌とか和漢の二分法ではままならないものがあると私は思います。―

(その二)
― 書架を探ったら、安東次男の『風狂始末』が出てきました。れいの冬の日「狂句こがらしの」巻の挙げ句近くの問題箇所の解を見てみたら、三句つづきの姉としたところ、此所は「わが祈り」がはらむべきものはわが妹の妊娠に関わること、そこから姉なる人が妹の「まゆかき」に行き、対して居湯を遣っている主体は妹その人である、というように、もとの『芭蕉七部集評釈』からは大きく読替をしているようです。一応ご報告まで。 ―

改めて、ありがとう。

 以下、日録。

今朝は5時半から歩く。約9キロ。すこしく距離を伸ばす。7時過ぎには帰宅。猫の早く飯を供せよと吾を呼ぶ声はげし。これにすぐに応じ、すぐにシャワーを使ひき。あがるや否や計量器に巨体を載せしも針の振幅少なきに絶望せり。

散歩に疲れ、朝食の後、書斎にて仮眠。起くればすなわち昼なり。昼飯は冷やし狐を作製し、40余年の長きにわたって同居する戦友とともに食す。冷やし狐はなはだ美なり。猫の求むるに、その一切れを与えたり。彼もこれにて満ち足るがごとし。暑熱いよいよ甚し。

戦友の町に出づるを見送る。
―「懸命にゲイになろうとすることは、懸命に他者性を鍛えるということだ。攻撃性に防備するということだ。アメリカで、エイジアンもアフロもイラニアンもコケイジアンも懸命にゲマインな共同性を振り切って、法と経済を充足する「個」を確保しようとする。その闘争的な場面は必ずや「個」のフィクションを査問する声を呼び込む。複数が「我」を張り合う。それを煽るのは、「個」のフィクションを極限まで切り詰めた単数としてのアメリカ国家である。国家の「起源」を「個」のエレン・ヴィタールに折り重ねる図式的なハリウッドの活劇は、「起源」に関与するモラリティを叩き売るだけでなく、「起源」としてのアメリカ国家を無限に懐胎するのである。―宗近真一郎・「二人」の生成をめぐって・「ポエティカ/エコノミカ」所収―

という部分を、そうだよなあ、表現がいいなあという気持ちと、わかりそうだがまだわからない表現があるな、というようなことを、考えつつ、そうだ、ここで言及されていることのすべてはフーコーにあるのかもなどと、フーコーを読まねばなどと、考えているうちに、またまた眠っていた。

4時半に戦友の帰るを迎ふ。これより走りにゆかんと余の言ふに、馬鹿、あほと叱責さる。さらば飲むに如かず。以下省略。

よきことありぬ。敬愛する詩人より今日葉書をいただく。吾のかくものの文体に言及して、
「明解で生き生きと弾むようなところがあって、昔、切り絵をする人が、ハサミと絵をきびきびと動かしているうちに、いつの間にか、くっきりした造形が切り取られている…それを子どもの頃見たことが思い返されてきました」と評して下さった。書き写していて面はゆいけど、なんと人を励起する具体的な表現だろうかと感激する。果てまで持っていきたい表現である。(私個人を離れて)普遍的ですばらしい表現でもあることは言うまでもない。生きる勇気が湧いてくる。

ここまでお読み下さった人、ありがとうございます。

2010年7月27日火曜日

ポエティカ/エコノミカ

 7月17日あたりから、学校の仕事は暇になったので(私は夏休みになり、通勤せずともよくなった)、毎朝メタボ症状の事後的な対策として散歩を90分ほど、8キロ程度を欠かさず今日までやってきた。朝できなかった場合は午後4時半から外に出たが、これが無謀だった。この暑さはまだこの時刻では衰えることがなかった。私の頭は、野球帽をかぶって防護しているのにもかかわらず、薄いせいも無論あるだろうが、今の時点(午後9時)でもまだ手を当てると普段とは異なる熱(暑熱のなごり)がある。年よりの冷や水ならぬ熱水である。熱中症手前だったろう。ハイの状態で汗みずくになりながら、ふらふらと帰宅したのである。
ここで休憩。ユーチューブの再生リストに入れ置いたベートーベンのピアノソナタなどを聴きながら書くとしよう。エリック・ハイドシェックの悲愴が鳴り始めた。
  
 一昨日は添田馨の『吉本隆明 論争のクロニクル』を通読した。添田さんはジャーナリスティックなまとめ方も結構上手い人だなという感想。こう整理してくれると、不勉強の身にはいろいろとためになる。昨日は宗近真一郎の『ポエティカ/エコノミカ』という評論集を半分ほど読む。タイトル通りに現代における「詩」と「経済」をクロスさせて、その対立や同型的な、あるいはアンビバレントな欲望と表現の相関について鋭く考察したもの、こういう視点もあるのだな、これも勉強になる。二人とも昔の「genius」の集まりの仲間だ。
 冷房をつけながら読むのだが、そのまま寝たり、寒くて起き、冷房を消す、また堪えがたい暑さ、…こういうことを繰り返して、文学も経済もわけがわからなくなるが、なぜか詩を書きたいという気持ちがさびしげに残っている。

 今、ケンプがMoonlight Sonataを弾いています。

 去年の今はアメリカにいたのだなと思うと、アメリカが懐かしくなる。

「現代詩手帖」の詩誌月評の仕事も9月号のそれになった。締め切りが8月9日。
8月号は明日か明後日あたり店頭に出るだろう。機会がありましたらどうぞのぞいてください。(8月号の原稿は一番苦しかった。出来も悪い。それでもなんとか書けたという意味で、私一個の記憶には残るだろう。)

ヴァイオリンソナタになった。クロイツェル。オイストラフです。

2010年7月24日土曜日

草の夕ぐれに

 二人だけの芭蕉七部集読書会。今日、午後2時から、八王子の子安市民センターで昔の同僚(彼は去年引退して、都の非常勤教員をやっている)と二人で「冬の日」の第一歌仙「狂句こがらしの巻」を読む。三十畳もあろうという和室、舞台まで付いている。もう半分の部屋が向こうにあり、その仕切りを開放すると小さな講堂や宴会場にもなろうかという作りだ。友人によると、舞台を使わなければ800円でいいとのこと。午後1時から5時まで。友人は、ペプシコーラの大壜二本とポテトチップスまで用意してきた。それだけではない、なんと彼は水筒に氷を入れ、当然のように角瓶の小さな奴まで隠していたのだ。大丈夫か?大丈夫ということで、まず畳の上にそこにある和室用の長机をセットし、彼は持参したプラスチックのコップに二人分のウイスキーのコーラ割を作る。乾杯と、小さくささやき、今回は彼の発表(驚くなかれ、七部集を読破するまで、この会を続けて行こうという決意なのだ)だから、彼の講読がはじまる。印象に残った付合の部分、

 二の折の裏、揚句に至る三句、

  わがいのりあけがたの星孕むべく  荷兮
   けふはいもとのまゆかきにゆき   野水
  綾ひとへ居湯に志賀の花漉して    杜国

この三句の主体をどう定めるか。彼は「いもと」の姉でいいと言う。それは彼の全くの想像なのだが、安東次男の読みとあらかた一致しているのに私は驚いた。 荷兮の奇想、野水の品位、杜国の美しさ、われわれが確認したのはそういうことだった。

 それから個人的に、この歌仙で一番好きな句は、芭蕉の「うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに」という句である。その理由は、秘密。もし、私に次の詩集を出す機会が恵まれるなら、「草の夕ぐれに」というタイトルにしようなどと……

ただ暑し

日焼田や時々つらく鳴く蛙     乙州
日の暑さ盥の底の蠛(ウンカ)かな 凡兆
日の岡やこがれて暑き牛の舌    正秀
ただ暑し籬によれば髪の落ち    木節
夕顔によばれてつらき暑さかな   羽紅


猿蓑(巻之二 夏)から。多分、現在の大暑のころの句だろうか。上の中では「ただ暑し…」という句がなんとなくわかる。「ただもう暑くてやりきれない。せめて道端の垣根寄りに行くと、抜け落ちた髪の毛がからまっていて何ともうとましい」(岩波・新日本古典文学大系・「猿蓑」は白石悌三の校注、による)という意味らしい。ただあつしまがきによればかみのおち、という響きも、ただあつし、を増幅させているような気がする。意味とイメージの上から言えば、髪の毛の暑苦しさはそれだけでインパクトがある。そういうところを言いとめたのはなかなかだ。でも、その暑苦しさのなかで、「籬」が暑さをぬけだす兆しになっていると、僕なら注釈を加えるかもしれない。

と思って、索引にあたるが、この言葉を使ったものは「籬の菊の名乗りさまざま」という「続猿蓑」の最初の歌仙中の里圃の付句と、「冬の日」第三歌仙の荷兮の「まがきまで津波の水にくづれ行き」という付句だけである。もっとも、この索引は「初句による索引」だから、「籬によれば」などのように中七のそれは探せばあるのかもしれない。それでも「籬」は「歌語」で「俳言」ではないから、その数はたぶん少ないだろうと予測はできる。木節の句の面白さは、俳言の暑さの中に雅やかな歌語を拉致し得たところにあるのではないか。「籬によれば」という文学の歴史が日常の中できらめくのである。あるいは沈むのである。

「現代思想」の5月臨時増刊号はボブ・ディランの特集号だった。僕が読んだ限りでは、どうしようもなく、あるいは、とんでもなくといってもいい、それほど面白かったのは瀬尾育生の「伝道者ディラン」というエッセイである。こんなに難解でラディカルなディラン論を読んだことはない。このエッセイのことではなく、このエッセイについてはその感想をいつか書くであろう。青山真治の「最も好きなディランの詩のフレーズは?その理由は?」というアンケートの回答を上の論旨に関係させてみたいのである。

青山は次のように回答している。

"Now you don't seem so proud about having to be scrounging for your next meal."(Like a Rolling Stone)
 突然、ポップス(現在)に歴史(大恐慌)の流れが押し寄せる瞬間。

俳諧も、けだし歴史(古典)の流れが押し寄せる瞬間を傷のように刻印しながら、それを越えて行く現在を、この社会のなかで打ち立てようとした芸術ではなかったのか。そういう意味でディランと同じ真のポップスであり、絶えざる流行のなかにいながら……。

2010年7月20日火曜日

あつしあつし

 暇になったので、散歩を再開した。6月の後半から7月中旬にかけての机周辺の不健康な仕事がたたって、体重も何もかも「重くれ」という感じになっていたこともある。
梅雨が思わぬ災害をもたらしながらやっとあがったと思うと、この暑熱地獄である。一時間半の歩きを再開したのはいいが、ハーハーゼーゼーの体たらく。しかし、今4日連続更新中、ひたすら歩くだけ。朝の6時から7時半まで、朝できなければ午後の4時半から6時まで、この時間帯は引退人間だから可能なのだが、もう少し朝は引き上げ、午後は引き下げるほうが、この暑さ対策を考えれば妥当であろうか。
 
 田んぼが数枚気持ちよい川沿いの場所がある。それを見ると先の豪雨で完全に冠水というか、漬かってしまった九州や中国の稲田の映像がダブる。あれらの田んぼはもうダメなんだろうと思うと痛ましい。
 
 芭蕉の「猿蓑」の二番目の歌仙は「市中は物のにほひや夏の月」ではじまる。
    市中は物のにほひや夏の月   凡兆  
     あつしあつしと門々の声   芭蕉
    二番草取りも果さず穂に出て  去来

その第三の「二番草取りも果さず穂に出て」という去来の句を、稲田のそばを通るたびによく思い出していた。太田水穂の「芭蕉連句の根本解説」に、二番草の説明として「二番草というのは、植付けてから二番目に取る田の草をいふ。一番草は陽暦では七月上旬、二番草は八月上旬ごろと見てよい。三番草まで取るのが普通になってゐる」とある。…今年は陽気が暑いので、二番草も取らないうちから稲が穂に出てしまった…というような意味である。豊作の予感ということだろう。二番草を取る暇もなく水没してしまった稲田も、この現代にあるのだということ。その稲田はおそらくは地方に残った高齢の人々の労作の賜物であったろう。
 
 野菜直売所という幟が無風に垂れ下がっている。朝方の販売も始めたらしく二三人自転車を止めている。時々は私もここで買う。立ち止まって物色していると、たどたどしい日本語でトウモロコシを求める女性がいた。三本頼んでいて、いくら、と訊いている。頭巾に手甲というのか手袋の顔見知りのここの農婦?が、三百円と答えると、躊躇して「私、高い」と客の女性は言う。そして二本に改めた。聞いていて、心痛むやりとりだった。その女性が自転車で急いで立ち去った後に、九条ネギだと農婦が言うネギと茄子を合計200円で私は買った。そのビニール袋をぶら下げ、次第に強まる陽射しにあえぎつつ私は歩いた。

2010年7月17日土曜日

借り暮らしのアトム

 
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どっちが家主か、ようわからん。

2010年7月16日金曜日

An apple a day

 今日、山の下東の最後の授業。5月の末から、週に二日で5時間の授業だった。9月からは大学の後期の授業が始まるので、とても一緒にはできない。1年生の最後の授業(70分)だった。漢詩入門をやってくれということだった。昨日の70分は、一海知義の「漢詩一日一首・夏」(平凡社ライブラリー)から「七夕・范成大」の所をプリントして、「古詩十九首」の第十首にある、例の「迢迢牽牛星、皎皎河漢女」から始まる古詩などを読みながら七夕の由来を紹介したりした。そしてそれが乞巧奠とも呼ばれ裁縫の上達を願う民間の祭りでもあったことなども話す。冷泉家の展覧会では、宮中に伝わる乞巧奠の儀式が展示されていた。そのあと、杜甫の深刻な社会批判の詩も紹介した。要するに、押韻の規則だとか絶句、律詩などということをすぐにやりたくなかっただけだが。
 今日は、いよいよ漢詩の決まりのことなどをしゃべらなければいけないのだが、また迂回して、英詩のナーサリーライムなどをプリントして、その脚韻rhymeや頭韻alliterationのことなどを説明した。それに谷川俊太郎のオノマトペ中心の詩を二編ぐらいプリントした。プラス「二十億光年の孤独」から「ネロ―愛された小さな犬に」も。そして井伏鱒二の「厄除け詩集」から于武陵の「勧酒」の名訳、「サヨナラ」ダケガ人生ダ(これは教科書に「勧酒」が載っているから)をプリントして配布する。とくに日本の自由詩と定型詩の違いなどを含めて、英詩や漢詩の世界を壮大な展望?の下に喋ってやろうというつもりだったが、うまくいったかどうかは分からない。(私の願いは漢詩の授業の時いつも思うのだが、中国語ができたならということだ。残念ながら学ぶ余力はない)。
 最後の挨拶などしたら、また来て下さいなどと愛想のいいことをいう男子生徒などもいた。

ということで、なんとか(山の上学校と山の下学校の期末テストのために、私は都合6個の異なる試験問題を作らざるを得なかった、これは長い教員生業のなかでもはじめてのことで、ほとんど生きる気力を失うばかりの、大袈裟?、仕事だった、その後の採点、成績付けなどをふくめて。しまいには夢に、別の高校でも教えていて、その試験問題を作るのを忘れてしまっているのではないかという疑いに攻められて、飛び起きたこともあったほどだ。)乗り越えることができた。この反動が自分ながらこわいのだが、今はとりあえずゆっくりしたい。

2010年7月15日木曜日

ここにもひとり

 今日は、山の下東で70分の授業をする。昔だったら、試験休みで、生徒も教員ものびのびできたのに、約十年あまり前から、都教委は「試験休み」などという「慣行?」を破壊して、いや、すべての「有意義な」「慣行」(この否定的なことばの響き!)を含めて破壊する「改革」を続行してきた、そのせいで、この耐えがたい湿度と暑さのなかで、午前中70分の授業を三時間、この山の東では率先して?やっているのである(いや正確に言えば、すべての都立校がこれに似たことを強いられてやらざるをえないのである)。1年生の授業だが、みんなすこぶる真面目で一言も不満の声は出ない。私は耐えかねて言ってやった、「みなさん、よくがまんできますね。昔は、今の時期はみんなが好きなこと、バイトやら、恋やら、読書やら、遊びやら、そういうことに熱中できる貴重な時期で、勉強のことなど全然気にかけなかったのですよ、云々」。沈黙、失笑、……。
 でも、でも、生徒たちの表情はなぜか私には救助を求めるもののごとくに見えたのである。引退した人間の無責任な観察と言われればそれまでだが。

 山の下東から、国立公民館、芭蕉の俳諧について話す。ときどき、だれに向かって話しているのか(年齢を越えた共感、共苦もあるのだということ)わからなくなった。そこで話したなかの「去来抄」の有名な一節は、

○ 岩鼻やこゝにもひとり月の客    去來

―先師上洛の時、去來曰、「洒堂ハ此句ヲ月の猿と申侍れど、予ハ客勝りなんと申す。いかゞ侍るや」。先師曰、「猿とハ何事ぞ。汝此句をいかにおもひて作せるや」。去來曰、「明月に乗じ、山野吟歩し侍るに、岩頭また一人の騒客を見付たる」と申す。先師曰 、「こゝにもひとり月の客ト、己と名乗り出づらんこそ、幾ばくの風流ならん。たゞ自稱の句となすべし。此句ハ我も珍重して、笈の小文に書入れける」となん。(中略)退て考ふるに、自稱の句となして見れバ、狂者の様もうかみて、はじめの句の趣向にまされる事十倍せり。まことに作者その心をしらざりけり。―

 「ここにもひとり」と、生徒や同年配の人々に、私も「名乗り」をあげたかったのである。ただ、見ている人でなく。私もあなたたちと同様に、…… と。                      

2010年7月9日金曜日

Almost blue

雨、危座して我を叱る人なき七月の雨よ
きびしくやさしく疲れている雨よ
物に憑かれたやうに聡く賢きわが姉たちよ
危座して我を叱れ
日のなかの常なる音の立てるやかましき
Chet Bakerのふぐりに立てる針供養
われ自らの滅びを滅びよ
それすらも管状の感情(ユーチューブの掛詞と読め)


ここまでで、最近の日常の音をこそ書かめ、いな聞かめ……

またAlmost blueが管からしみてくる。

「危座云々」は 解酲子の、夢に藤井貞和が出てきたという彼の日記の記述による。

今日も、どうにか、そんなに粋がらずに、気張らずにSauve qui peutという感じ。

2010年6月27日日曜日

論争のクロニクル

『吉本隆明 論争のクロニクル』(響文社)をその作者、添田馨さんから昨晩頂戴した。木村和史と「飢餓陣営」の佐藤さんと、添田さんの四名で東京駅八重洲地下街の居酒屋で飲んだ。久しぶりに三名とも会えた。湿気と電車の中の冷房で寒さを感じていたので、燗酒を多量に飲んでしまった。今日は少し二日酔い気味である。『吉本隆明 論争のクロニクル』は添田さんが「飢餓陣営」に連載していたものに書き下ろしを加えて全8章の堂々たる吉本の論争史を中心にした吉本隆明論である。4千部出したということだ。これには驚いた。それだけ、詩集とは異なり需要もあるのだろう。たしかに、この本は吉本とその論争相手、そしてそのテーマを時系列に扱っているので、時間軸からながめて当時のアクチュアリティがどこにあったのかなどを改めて知ることができて、勉強になる。売れるだろうし、売れてほしい評論書である。加藤典洋さんが帯文を書いている。

2010年6月23日水曜日

サムサの神話

天沢退二郎さんの朗読を聴き、ご持参のワインを参加者で飲み、一緒になった新井豊美さんと東京駅八重洲口一番街で食事をし(新井さんは食べきれないと言って、天ざるのエビ天ぷらを一本ぼくに恵まれた)、長駆、国立、八王子に帰る。いま帰宅。東京は遠い、遠いが天沢ワールドに深くさらわれた時間を喜ぶ。

朗読された詩は、最新作から(このような高名な詩人が自作詩の発表の場がないと言われた、だからここで朗読する、みなさんのために書いている、とも言われた、そのことを今考えている)、「サムサの神話」、「―通奏低音のこころみ―から、 「降雪予報集」」、「トキの時」、「アリス・アマテラス」

すべての詩が宮沢賢治の詩や童話と深くで響き合っているような気がしたのは言わずもがなのことだろうか。

童話の「木の橋」の一節。これも面白かった。私は、つげ義春を連想した。

翻訳、クレティアン・ド・トロワの抒情詩と「フィロメーナ」抜粋から。

この中世の詩人の翻訳に私は非常に関心を持った。

以上を一時間半ぐらいで朗読された。その朗読は滋味あふれるもので、優しく豊かな授業を受けたような感じがした。

2010年6月20日日曜日

湯殿川

 6月になってはじめて、湯殿川の散歩に出る。このことを思うと、この月の忙しさがよくわかる。久しぶりの、片倉城趾、鯉たち、菖蒲たち、枇杷や桑の実はすでになり、早苗が用意されている八王子米の田たち、吐く息吸う息が腹に落ちそこから生まれる、その安堵にひたる。

2010年6月15日火曜日

片手の鳴る音は?

なんとか怒濤の6月を乗り切ることができそうである。畏友、解酲子の言を借りれば、疲労困憊セグンドではあるが。

息子の結婚式、すなわち弟の結婚式のためにアメリカから帰国した娘たちとの小旅行、それに何やらと、この月の忙しさは前代未聞の助という感じだった。それでも京都で、オマー君が、華麗なムーンウオークにのせてビリー・ジーンをカラオケで歌う(そう、われわれは新幹線のプラットホームが見える京都駅近くのカラオケ屋で歌会を開いたのでアリンス)のを聴くことができたのは旅の疲れも忘れる幸福な一時であった。私は妻と唱歌「おぼろ月夜」などを二重奏で歌い、娘とそのフィアンセの喝采を浴びたのである。ガラス窓越しに人の行き交いがよく見える京都駅の方に向かい、ひとしきりThank you Kyouto!などと両手を挙げ、蛮声を上げたりしたが、これはすぐに家族から止められた。

オマー君に京都で一番よかった寺はどこかと聞いたところ、龍安寺のrock gardenだということだった。ここは比較的修学旅行の生徒なども少なく、縹渺とした石庭に向かいしばし沈思黙考の時間を持つことができたからであろう。そこで私はオマー君に、サリンジャーのnine storiesのエピグラフに掲げられている、以下のアメリカで一番有名な禅の公案について話してみようかと思ったのであるが、無粋な気がしてやめたのであった。

We know the sound of two hands clapping.
But what is the sound of one hand clapping?
            両手の鳴る音は知る。
            片手の鳴る音はいかに?

彼らも今日帰米した。我が家の2名と1匹の寂しい日常が息づく。

2010年6月9日水曜日

6月のPied Beauty

6日、息子の結婚式。根津神社で。
いい天気で、簡素で心のこもった結婚式だった。友人のTroyが披露宴での乾杯の音頭を取ってくれる。
アメリカから娘とそのフィアンセのOmarも来てくれた。

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2010年6月2日水曜日

「友愛」の行く末

鳩山首相が辞めた。小沢幹事長も。宇宙飛行士の宇宙滞在よりは100日ほど長く、独裁者たちよりは限りなく短い在職期日であった。日本の首相の賞味期限は1年を待たないということが4名によって実証された。

先日、雁屋哲のブログを読み、「真の敵は誰か」ということで、それはアメリカであるということが説得的にそこには書かれていた。なるほどと肯くことが多かった。1972年の沖縄返還時からの密約のつけは巨大化し、それを結局は待望の政権交代を果たした民主でも清算できなかったということなのか。1972以前からの問題でもある、安保にからんで一党独裁のように続いてきた自民、いわゆる55年体制のトラウマをこの政権こそは真っ当に見据えて、アメリカと対等な関係を築かなければならなかったのに、またも潰えたということでもある。

それを未だ生き残る「巨悪」たち、某新聞社主、某首相経験者、某某などや、あいも変わらぬ安保フェチストたち、安保オタク、冷戦思考のお化けたち、そして検察たち、滅び去るべきマスメディアたちの、野合が鳩山を結局はつぶしたということになるのか。

鳩山の辞職に、中国は即座の反応をし、大々的にニュースで取りあげた、ロシアも、韓国も。今の時点で何の反応もないのがアメリカ。それでもnhkのニュースで、アメリカ特派員は、鳩山の普天間の「迷走」ぶりに、不快を示したなどとアメリカ政権(まだ寝ていて、なんの反応もない)の従前からみんなが「耳タコ」状態になっている、おきまりのアメリカの反応を最初から明示し、鳩山辞職への、アメリカのいまだなされぬコメントの創作をもいとわぬ解説ぶりだった。要するに、戦後からの刷り込み(アメリカは先生、日本はまだ生徒)のはなはだなること払いがたしということがよくわかる。

友愛の次は争闘か。

今、ツイッターを見たら、鳩山元首相が次のように呟いていた。

―hatoyamayukio 本日、総理の職を辞する意思を表明しました。国民の皆さんの声がまっすぐ届く、クリーンな民主党に戻したいためです。これからは総理の立場を離れ、人間としてつぶやきたいと思っています。引き続きお付き合い下さい。―

2010年5月31日月曜日

五月尽

 普天間基地の問題で、日米の合意は、辺野古移設に回帰した。これに反対した福島瑞穂が内閣を罷免される。社民は連立政権から離脱することにした。最近珍しく道理の通った政治的な言動を見たような気がする。二大政党などという幻想を吹っ飛ばして、第三極の中心になるぐらいの気概で社民に、基地問題や憲法の問題に頑張って欲しいと思う。

2010年5月27日木曜日

ナンセンス

 6年ぶりに、昔の職場で授業をした。昔の卒業学年の生徒の妹がいた。この学校は横田基地への飛行機の進入経路の下にあるので、基地から離れているといえ、窓を開けていると、飛行機(その種類は知らない、いずれにせよ軍用機)が通過するときは、かなりの轟音だ。そのために都立校としては早くからエアコンが設置されていて、それが自慢とも言えぬ自慢だったが(そのエアコンも都の予算削減とかいうことで厳しく使用時期や時間が定められている)、今日はその時期ではなく、窓を開けていたせいか、授業が寸断されるような感じがした。思わず、生徒たちに「普天間」基地のことなど話した。比較にはならないが、これがもっとすごかったら全く授業など成り立たないよね、と。

全国の知事会で鳩山首相が基地移設のお願いなどをしていた。そのあとで、石原が「全くナンセンスな会議だった」と、いつものナンセンスな感想をもらしていた。

2010年5月25日火曜日

鉋をかけると鉋屑が出る

急激に忙しくなりそうな予感に脅えている。まず山の上、採点を済ますこと。山の東、木曜、金曜と5時間だが、臨時の仕事を依頼される。断れない性分がここでも自分を苦しめることになる。市ヶ谷あたりの原稿にもそろそろ取りかからなければならない。愚息の結婚式、これは楽しみだが、これも控えている。娘とそのパートナーがアメリカからこの式に参列するためにもうすぐやってくる、これも楽しみだが、如上の仕事が順調に行くことが気分の上でもっとも大切である(からして、がんばろうという、自分への励まし。)

日曜日、日本現代詩人会の「日本の詩祭2010」。その第一部の司会を和服姿の美しい新井さんとともにする。これまでのH氏賞受賞者10名の朗読は圧巻だった。われわれの分担である第一部のメインであり、時間通りに終わってほっとした。いろんな方と会うことができた、私の詩の上での精神的な師とでも言うべき、こたきこなみ さんとは二十年余りを経て対面することができた。ほんとうにうれしかった。二次会の飲み会に五十人ほど参加していたのには吃驚した。ここで受賞者の田原氏や高橋睦郞氏などから親しくその話を聴くことができた。高橋さんの強烈な人物批判に驚くとともに感心する。帰りは、これも久しぶりに京都から出てきて二次会にも出席していた河津さんと一緒の電車で、ずっとしゃべりながら帰る。元気でよかった。彼女は国立で降りる。私はやはり相当くたびれた一日であった。

2010年5月22日土曜日

途上

今朝の朝日の連載もの、「うたの旅人」は森田童子の「ぼくたちの失敗」だった。一読して、森田の歌を聴きたくなったので、youtubeで探す。そこにあるほとんど全てを聴き、「再生リスト」に入れておく。これで午前中の時間のすべてを費やすが、後悔しない。それほど素晴らしかった。全部おなじ曲のように聞こえるが、泣きたくなるほど詩(詞)がぼくの記憶のどこかをくすぐるように突く。忘れたと思っている記憶が蘇生する、たまらくなるというような経験。たぶん同時代人だが、同時に聞いてきたという経験が私にはない。逆にそれだから今の地点で鮮やかに響くのだろう。彼女は現在は活動を停止しているということだ、停止というより止めたということの方が正確かも。その歌のすべては、メジャーな市場で売れる(売れたこともある)よりも、そんなものに関係なく、ひたすら亡滅に向かって走って行く、その旅の途上のスケッチである。











2010年5月18日火曜日

生還

43度の、たしか5年間沖縄の鍾乳洞に寝かせたという泡盛の古酒を下落合の杉原先生のところで、昔の同僚2名とともにご馳走になる。奥様のいつものフルコース(最後はおそばでした、たしかそうだよね)を満喫しながら、贅沢な時間を過ごす。ありがとうございました。杉原先生は79歳とは思えないほど、酔うほどに舌鋒鋭く、教育問題や、いつまでも成長しない、幼児のような、反省なき仇敵石原某都知事を切って捨ててくれた。溜飲が下がるにつれて、酔いの濃度は上がる。さすがに昔とは異なり、きちんと挨拶をして三名は帰宅の途にのぼったのであった。三名の一人は先輩、ぼくとKは同い年。久しぶりに杉原先生のところで、ところだから会えたのだろう。これが16日、日曜日の出来事。自宅に帰り着いたのは17日を過ぎていたが、無事生還。

2010年5月15日土曜日

基地反対

「基地反対」ゆるむはちまき締めなほし一万五千の一点に立つ
       伊仙            水島 徹

徳之島、伊仙町に住む老父が、南日本新聞の「南日歌壇」の永田和宏選の一番初め(なんというのか、一席とでもいうのか)に選ばれたと言って、ファックスで新聞(5月13日)を今晩送ってきてくれた。

その永田の評は「もちろん他人事ではなかろう。たとえ一万五千分の一であろうとも、「ゆるむはちまき」を締めなおし、反対を叫ぶ声は大きい」というのである。

私は次のような感想を書いて父に送った。
「とてもいい歌だと思います。引きしぼってゆく叙述と情念の一致が歌の形式を越えた真実を読む者に伝えます。」

2010年5月14日金曜日

はるばるきぬる旅

 昨日は根津美術館へ尾形光琳の燕子花図を見に行く。立って見、座って見、飽きることがなかった。
大胆にデザイン化されたこの屏風絵を見ていて、毎度のことながら江戸時代の「文化」「芸術」の極度の洗練と高度さを思わずにはいられなかった。その他の蒔絵の施された工芸品も、茶道具などのすごさも。

この絵は伊勢物語の八橋の段を面影にしていると言われる。「唐衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」。日本で一番有名なacrosticの和歌だ。

万葉集の巻十に夏相聞の部立で、「吾のみやかく恋すらむ杜若丹つらふ妹は如何にかあらむ」という可憐な片思いの歌が杜若(かきつばた)に関してある。この歌はいいなと思った。

以下、美術館の庭の杜若。

 
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2010年5月13日木曜日

The May Magnificant

The May Magnificant
Gerard Manley Hopkins

MAY is Mary’s month, and I
Muse at that and wonder why:
Her feasts follow reason,
Dated due to season—

Candlemas, Lady Day;
But the Lady Month, May,
Why fasten that upon her,
With a feasting in her honour?

Is it only its being brighter
Than the most are must delight her?
Is it opportunest
And flowers finds soonest?

Ask of her, the mighty mother:
Her reply puts this other
Question: What is Spring?—
Growth in every thing—

Flesh and fleece, fur and feather,
Grass and greenworld all together;
Star-eyed strawberry-breasted
Throstle above her nested

Cluster of bugle blue eggs thin
Forms and warms the life within;
And bird and blossom swell
In sod or sheath or shell.

All things rising, all things sizing
Mary sees, sympathising
With that world of good,
Nature’s motherhood.

Their magnifying of each its kind
With delight calls to mind
How she did in her stored
Magnify the Lord.

Well but there was more than this:
Spring’s universal bliss
Much, had much to say
To offering Mary May.

When drop-of-blood-and-foam-dapple
Bloom lights the orchard-apple
And thicket and thorp are merry
With silver-surfèd cherry

And azuring-over greybell makes
Wood banks and brakes wash wet like lakes
And magic cuckoocall
Caps, clears, and clinches all—

This ecstasy all through mothering earth
Tells Mary her mirth till Christ’s birth
To remember and exultation
In God who was her salvation.


五月はマリア様の月 そして私は
そのことを心に想い どうしてなのだろうといぶかる
 彼女の祝日にはちゃんとした理由があるのだ
 季節によってその日は決められるのだ―

御清めの祝日があり 御告げも祝日がある
しかし御母の祝日は五月なのだ
 何故その月を彼女にあてるのだろう
 彼女を祝う宴を開いて?

五月がどの月よりも輝かしいということだけが
彼女を喜ばせるのだろうか
 それは一番すばらしい時期なのだろうか
 花もすぐに見つかる時なのだろうか?

彼女に あのすばらしい御母に聞いてみるがよい
彼女は答える代わりに次のように問いかけるだろう
 春とは何でしょう?― そして答えて
 それは万物の成長の源なのです―

肉と羊毛 毛皮と羽根 草とみどりの世界
それらすべてのものの成長の源なのです と
 星のような眼をした いちごのような胸をしたつぐみは
 重なるように産みつけた一群の

青じそ色をした殻の薄い卵を抱いて
その中の生命を養い 暖める
 そして鳥も花も 芝地や莢や殻の中で
 だんだんと大きくなって行く

すべてのものがよみがえり すべてのものがそれぞれに育って行く
マリア様はすばらしい世界を
 自然の母なる姿をご覧になって
 心から共鳴されるのだ

万物は各の種をよろこびをもって
讃えている そのことは御母が
 胎内にお宿しになった主を
 讃えられたことを思い起こさせてくれる

いや しかしこれ以上のことがあったのだ
世界に行きわたる春のよろこびは
 マリア様に五月という月を捧げることと
 深い深い関係があるのだ

血の滴と泡の白さがまだらに入り混じったような花が
りんごの果樹園に灯をともし
 茂みと野原が きらきらと光る
 さくらんぼと陽気にたわむれ合って

あたり一面を青く染めたつるがね草が
湖のように 森の斜面と茂みを うるおすように波立たせ
 妖しいまでに美しいかっこうの啼き声が
 すべてをしのぎ 越え 圧する時―

この恍惚感は母なる大地に行きわたって
キリストの御生誕までのよろこびと
 彼女の救いである 神への歓喜とを
 マリア様がいつまでも心に留めておくようにするのだ
                (安田・緒方訳・春秋社「ホプキンズ詩集」より)

(ノート)
カトリックでは五月は「聖母月」とも言われるが、その理由をHopkinsらしい発想とすばらしい比喩で述べた詩と言える。書き写していて、翻訳の宗教臭に嫌になるところもあるが、それをこえて、特に5、6連、10、11連の自然のとらえ方のあたたかさや美しさは比類がない。

2010年5月10日月曜日

Pied Beauty

Pied Beauty (Gerard Manley Hopkins )



GLORY be to God for dappled things—
For skies of couple-colour as a brinded cow;
For rose-moles all in stipple upon trout that swim;
Fresh-firecoal chestnut-falls; finches’ wings;
Landscape plotted and pieced—fold, fallow, and plough;
And áll trádes, their gear and tackle and trim.

All things counter, original, spare, strange;
Whatever is fickle, freckled (who knows how?)
With swift, slow; sweet, sour; adazzle, dim;
He fathers-forth whose beauty is past change:
Praise him.

斑なものたちを造りたもうた神に栄光あれ。
 ふたつの色の日々刻々の空、ぶちの雌牛を、
 泳ぐマスの背のぷつぷつのピンクのアザを、
おこしたばかりの火のうえの焼き栗のしわ、
          フィンチ・スズメのつばさを、
 区切られ、耕された風景―窪み、畑、畠、
 そしてすべての生業とその服装と道具と用具を。

また対になったものをみな、奇抜で、余分で、変わったものを、
 移り気で、ソバカスのあるすべてのものを(どんなふうに?知るものか)
 早くて、遅くて。甘い、酸っぱい。燦めき、あるいはどんよりした。
美が変わるものすべてにとって彼は父だ。
褒めたたえられよ。     (須賀敦子訳)





「古いハスのタネ」(全集第3巻 河出文庫)という須賀敦子のエッセイを読んでいたら、今、興味をもって読んでいるジェラード・マンリー・ホプキンズのことが少し書かれていた。そのついでに紹介されているのが、この「まだらな美しさ」、須賀はこう訳しているが、その詩の訳である。よくわからないところもあるが、須賀の訳をそのまま引用しておく。

でも言われていることはよくわかる。まだらな美こそが素晴らしいということだ。

2010年5月7日金曜日

日課

最近の日課。

朝起きて、高橋源一郎の深夜の「路上ライヴ、公共性」のツィートをコピペすること。結構時間がかかる、読みながらやっているからね。「幼児洗礼」やアーシュラ・K・ル=グインの文章など、すべて面白い。昨日はプリントアウトして外出時に持っていきました、A4の用紙で14ページ。今朝はそれに何ページ増えたか。

2010年5月3日月曜日

Spring and Fall : To a Young Child

Spring and Fall : To a Young Child  Gerard Manley Hopkins (1844-89)

   
   MÁRGARÉT, áre you gríeving
   Over Goldengrove unleaving?
   Leáves, líke the things of man, you
   With your fresh thoughts care for, can you?
   Áh! ás the heart grows older
   It will come to such sights colder
   By and by, nor spare a sigh
   Though worlds of wanwood leafmeal lie;
   And yet you wíll weep and know why.
   Now no matter, child, the name:
   Sórrow’s spríngs áre the same.
   Nor mouth had, no nor mind, expressed
   What heart heard of, ghost guessed:
   It ís the blight man was born for,
   It is Margaret you mourn for.

    
   春と秋       
        ある幼子に



   マーガレットよ お前は黄金色をした
   木立ちがその葉を落とすのを嘆いているの?
   木の葉のことを まるで人間の世界の事柄のように
   その初々しい心で心配することができるのだろうか?
   ああ! 心はだんだん成長するにつれて
   そのような光景には感動しなくなる
   また森全体が生命をなくし 落ち葉があちこち
   散らばるようになっても ため息すら漏らさなくなる
   それでいながら お前は泣きじゃくってそのわけを知りたがる
   ねえ お前 そのわけなんてどうでもいいんだよ
   かなしみの泉は同じなんだ
   口も心も 魂が聴いたことを
   霊魂が推し量ったことを 言い表わせないんだ
   人が生まれて来たのは 立ったまま 枯れてゆくため
   だからマーガレット お前が悲しんでいるのは自分自身のことなんだよ


  ホプキンスのこの詩まで行きついた経緯は省略する。でも、この詩を発見してやっと何か書けそうな気がしてきた。(この訳はぼくのものではない、広いブログの海のなかで見つけたもの。Culture Jammerというのがその名。)

2010年5月2日日曜日

午前0時の公共性

皆様

連休はいかがお過ごしですか?小生は白紙の原稿を抱えて、このよき天候に引き籠もり状態です。以前よりネット上の「ツイッター」なるものをのぞいて憂さをはらしていますが、高橋源一郎がとても面白いことをやらかしました。下は高橋のツイッターを自分のために読みやすくコピペしたものです。5月2日の午前0時から高橋はつぶやきはじめ、また2週間ほど、この試みをやるそうです。そこには、「公共性」の小説におけるとらえ方が展開されようとしています。暇つぶしに、お目を通しても損はないと思います。

水島英己


高橋源一郎(takagengen )による「午前0時の公共性」

予告編① あと少し、24時頃から「メイキングオブ『「悪」と戦う』」という連続ツイートを始めます。毎日、同じ時間に少しずつ、二週間ほど続ける予定です。中身は、ぼくの新作に関するあらゆること。具体的には始めてみないとわかりません。なにしろ、ふだん寝てる時間帯だから、起きられるか……。

予告編② ツイッターを始めて4カ月、なんとなくわかったことがあります。それは、ツイッターの「公共性」が、小説の「公共性」とよく似ていることです。いや、「小説」の「なにをやってもかまわない」という性質が、ツイッターのそれとよく似ているといっていいかもしれませんね。

予告編③ ツイッターという「歩行者天国」で、ギターを抱え、通りすがりの人に歌うおじさん(「なに、あの人? お客いないじゃん」)をやってみます。一つ決めているのは、ツイートすることは、ふだんぼくが原稿として書いているものと同等以上のクオリティーにすること。そしてそれを無料で配る。

予告編④ 昨日(今日?)、ツイッター上で、岡田斗司夫さんと町山智浩さんの間でちょっとした「論争」がありました。岡田さんが「社長の岡田さんに月1万円ずつ払う社員でできている会社」を作ろうとしたことに、町山さんが「違法ではないか」と言ったのです。確かに町山さんの言う通り、違法です。

予告編⑤岡田さんはなぜそんな変なことを思いついたのか、岡田さんは、社員から1万円ずつ集めた会社(そこでは岡田さんが社員にスキルを教えます)からの金で生活し、その代わり、どこかへ原稿を書く場合はすべて無料で書こうと考えたのです。ひとことでいうなら、「商品経済からの離脱」です。

予告編⑥ どんな表現も「商品経済」から逃れられないとするなら、岡田さんの「会社」は単なる夢想にすぎないのでしょうか。「商品経済」はきわめてよくできたシステムです。しかし、ぼくは、「商品経済」の「外」に、可能性を見いだそうとする岡田さんの強い願望がわかるような気がしたのです。

予告編⑦ 岡田さんの「会社」もまた、新しい「共同体」への希求の現れでしょう。そして、そういう人を見ると、人は「なんておかしなことを考えてるんだ、狂ってる」と言ったりするのです。でも、狂ってなきゃできないこと、狂ってなきゃ見えないこともあるんですけどね

予告編⑧ 最初のツイート以外にはなにも決めていません。ふだん原稿を書く時と一緒です。キース・ジャレットみたいに即興です。途中で立ち往生するかもしれないし、子どもたちが寝ぼけて書斎に侵入してくるかもしれない。その時はごめんなさい。それでは、「午前0時の公共性」をお待ちください。

メイキングオブ『「悪」と戦う』① この間、ゼミで村上春樹さんの『1Q84 』BOOKⅢを読んで、みんなの感想を訊いた。みんなはそれぞれ、テーマやメッセージや隠された謎やその解釈についていろいろしゃべってくれた。なかなかのものだった。その時、T君が、突然こんなことを言い出したのだ。

メイキング② 「テーマもメッセージもなにもないと思うんです。空っぽなんだと思うんです」。「じゃあ」とぼくは言った。「そこにはなにがあるの?」。すると、T君は、「村上さんは、小説を書いているんだと思う。というか、小説を書きたいんだと思う。ただそれだけ。他にはなんにもなし」

メイキング③ 「いちばん大切なのは、小説を書くこと、他はどうでもいい!」。T君の発言は、みんなを困らせた。なにがなんだかわからない。でも、ぼくはものすごくおもしろいと思ったんだ。村上さんのその本が、そうであるかは置いておくとして、T君は、ふつうの人が思いつかないことに気づいた。

メイキング④ ふつう、小説で大切なことというと、作者が言いたいことや、物語や、テーマや、文体やら、ということになる。でも、T君によれば、小説は、なにも積んでいなくても、ただそれだけで価値がある、積載物ではなく、それを積んでいる本体(車体?)の方に意味がある、のだ

メイキング⑤ なんだか抽象的な話になっちゃいそうだなあ。いかんいかん。具体的な話をしてみよう。「小説しかない」という小説の、最近のもっともいい例は東浩紀さんと桜坂洋さんの『キャラクターズ』だと思う(もちろん、「小説しかない」わけじゃなく、それ以外のものもたくさん詰まっているが)。

メイキング⑥ ぼくは『キャラクターズ』の評価が低いことに、というか、際物扱いされることにほんとにガックリしていた。東さんの『クォンタム・ファミリーズ』は「文学作品としては」『キャラクターズ』よりずっと上かもしれないが、「小説の強度」としては、『キャラクターズ』の方が上だ。

メイキング⑦ 『キャラクターズ』をの読者は(というか、批評する側は)、例外なく困惑する。作者がふたりいること、にだ。ぼくたちは、作者というものは一人であり、その一人しかいない作者のメッセージを解読することが「読む」ことだと「思わせられている」。
メイキング⑧ もしふたりの作者が、作品内で勝手に、それぞれの道を行ってしまったら、読者はどう解読していいのか、自信をもって言うことができなくなってしまうだろう。でも、それでいいのだ。わからなくっても。というか、わからなくするために、作者は、小説という手段を用いているのだ

メイキング⑨ 小説というものは、ほんとうは「『私』は、『私』以外の他人、『私』以外の『私』を実は理解できない」ということを証明するために書かれているからだ(とぼくは思っている)。だから、誰が書こうとほんとうは小説なんか意味がわからないのだ(他人の考えていることがわかりますか?)。

メイキング⑩ なのに、ふだんぼくたちは、わかったような気がしてしまう。他人が考えていることがわかるような気がしてしまう(そんな気にさせてしまう点こそ、多くの小説の重大な「罪」)。そんなぼくたちの目の前に、ふたりの作者が書いた一つの作品が現れる。ただそれだけでぼくたちは不安になる。

メイキング⑪ ふたりの異なった意見を持つ他人が目の前にいる。面白いのは、そのふたりがお互いに理解し合ってはいないように見えることだ。だから、ぼくたちは不安になる。彼らの間にコミュニケーションがないように、ぼくと彼らの間にも理解し合えるものはなにもないのではないか。

メイキング⑫ 以前、ある雑誌で阿部和重さんと中原昌也さんが「共作」するという話が出た。実現はしなかったけれど(たぶん)、その話を聞いた時、ぼくは「さすが」と思った(「馬鹿なことやってる」という反応が大半だった)。小説がほんとうはなに(でありうる)のか彼らにはわかっていたのである。

メイキング⑬ 小説はひとつの「公共空間」だ。公共空間とは「複数の、異なった、取り替え不可能な『個』がいる空間」だ。なぜ、そんなものを書こうとするのか、それはぼくたちが日々「公共空間」を生きているからだ。もしくは、いま生きている世界に「公共性」を取り戻したいと考えているからなのだ。

しんちゃんが泣きだしたので(たぶん歯痛のせい)、本日はここまで。質問等々あれば、リプライください。できるだけ返事します。とりあえず、子どもの様子を見てきます。んじゃ

メイキング・番外 しんちゃんに痛み止めを飲ませました。連休中やってる歯医者さんを探さなくちゃいけないかも。メイキングの続きは、また明日の24時(の予定)。みなさん、ご静聴ありがとうございます。これから、少しリプライします。

それも大きな理由だと思います。 RT @hirokilovinson 『キャラクターズ』が際物扱いされた理由には「哲学者・批評家である東浩紀に言語芸術である小説は書けない(書けたら最初から作家になっているはず)」という穿った先入観があったためではないでしょうか。 (

自覚しないで書けるのが理想ですね。 RT @sgkt1124 「私は、私以外の他人、私以外の私を実は理解できないを証明するために書いている」というのは、意識的にそう書いているということでしょうか(中略) 自分でも文字になるまで何を書いているかわからないということでしょうか

そこでは「個」にかなりの「強度」が必要とされると思います。ふつうの小説以上に、です。 RT @arayatakuto キャラクターズは二人で書いた分、個の複数性が際立つ。さらに言えばwiki小説などが公共空間という側面が強く、より小説らしくなりますか?


それでいいのだと思います。 RT @dzna @takagengen 私は、「私」のことを出来るだけ遠くから離れて見るために小説を書こうと思っていました。そうすれば理解できるかもしれないと。そんなことしなくても、人は自分を理解しているのでしょうか

偶有性と同時に成り立つ公共性が必要とされてます。 RT @shanti_aghyl しかし私は小説こそ、そのかけがえのない特定の個という偶有性を公共に対してまずは打ち立てる必要があると思います。ともすると閉じてしまう、特定の交換不可能な関係を帯びた「語り」が、いかに公共空間

そうです。一回分だけ読んだことを思い出しました。中身は覚えてませんがw RT @jeankenpom @takagengen 阿部和重さんと中原昌也さんの「共作」とは、赤ん坊が松明代わりに(『文藝』、第1回・2004年夏号、第2回・2005年春号)では? 私は未読ですが。

小説は、「ありうべき共同性」の、限界(とその先)まで描くことができると思います。 RT @aniooo 自己をも含む他者との理解不可能性が表現された小説を通じて構築し得る公共空間は、小説以外のコミュニケーションで構築される公共空間と、どのような特異性をもつのでしょうか。

同感です。韻文は共感を迫ります。散文は共感ではなく覚醒を迫るものです。 RT @it663 @takagengen 小説の、「あいだ」のメディア、幽霊的な(?)メディア性を考えた時、それが散文の(prosaicな、味気ない)表現であることが、逆に強みになるのではないですか?
はい。でも、「私の立場」って、考えてみると実はよくわからないんですけどね。 RT @aikank 私は相手のことを本当に考えてあげられているか?と考えるとき、私が彼だった可能性、彼が私だった可能性、私の立場が彼の立場だった可能性をどうしても考察の中に入れてしまいます。

ところで、この時間帯はふだんなら熟睡している時間帯です。さすがに頭が回らなくなってきました。すいません、ちょっと寝ます。それでは、お休みなさい。

(以上は今朝(5時半)現在までのツイッターの記録です。水島)
(この続きはどうなるか興味はありますか?)(興味のある方は、ご自分で追いかけてみて下さい)

2010年4月29日木曜日

思い、ウムイ、徳之島

 普天間基地の一部機能の徳之島移設の問題についての甲府の女性の投書(4月25日・朝日新聞・声欄掲載)を読んだ。島の反対集会や3町長の政府側との面会拒否によせて、「徳之島で要らぬものは沖縄でも要らぬ。そんな思いには至らないのだろうか。徳之島が基地の町にならなかったらそれで解決なのだろうか」と書かれている。その前に考えて欲しい。あの反対集会に参加した人々は単に自分たちの島だけがよければなどと考えて「基地反対」と主張しているのだろうか。古くは薩摩の搾取にあえいだ奄美の島として、また沖縄とともに戦後米軍の冷戦戦略の一端として53年まで分断支配されていた歴史、それまでもそうだったが復帰してからの困窮にたえた生活の経験、それらが「長寿、子宝、癒しの島に米軍基地はいらない」というスローガンに集約されているのではないか。普天間、沖縄の強いられている負担を、一番身近で同様な文化圏に属するものとして骨身にしみてわかるからこそ「反対」なのではないか。当然のことだが、このスローガンは沖縄のものでもある。問題は徳之島の民意や3町長の対応にあるのではない。日本駐留米軍基地の問題を含めて、アメリカの軍事戦略そのものとそれに対する同盟国(対等とはとても言えない)としての旧態依然とした対応(政権は変わったのではないか、変わったよね。)の仕方こそが問題なのだ。

(26日頃に書いたものだが、昨日の鳩山首相の徳田虎雄との会見などもあり、事態は予断を許さない。いずれにせよ、最終的に苦難を引き受けるのはそこに住んでいる名もない人々である。米海兵隊の基地移設を最終的に容認せざるをえないように諸々の強制が「腹案」裏にメディアも含めて、いや率先して論調が操作されているようだ。そのことに対して深い危惧と怒りを感じる。これは徳之島に生を享けた一人の人間としての思いでもある。)

2010年4月25日日曜日

DEATH AND THE FLOWER

 足を引きずりながら散歩に出た。読んだり、書いたりする気力が全然わかない。それまで古いCDを埃の山のなかから手当たり次第引きずり出して聞いていた、KEITH JARRETTの"DEATH AND THE FLOWER"というのを何回か聞いた。とくにCHARLIE HADENのベースの響きがいい。この二人は何もおしつけない、それぞれがどこか遠くをぼんやりと見て、二人のそれぞれの抒情詩を呟いている趣、でもそれが期せずして美しいハーモニーを、そう変な言い方だが自発的に形成する。

2010年4月24日土曜日

鯖と新ジャガ

 足の痛みはなかなかひかないが、お日様が照っていた合間を見計らって散歩に出た。湯殿川から雑木林の丘を通過して、あたらしくできた公園に出て八王子みなみ野まで歩く。たいした時間ではないが、気持ちよかった。みなみ野のスーパーで、280円の生鯖と、タイムというハーブ野菜を買って帰る。これは、今日の朝刊にレシピの掲載してあった「鯖と新ジャガ芋のグリル」なる料理を夕飯に作ろうという魂胆をなぜか今日起こしたからである。以下手順を述べる。まず、三枚に下ろして貰った鯖の一片を二枚に切り分けた。その一枚の身の表面に二三本の溝を作り、そこにニンニク断片とちぎったタイムを埋めこむ。オリーブオイル、大さじ二杯をそれにたらし、マリネ状にして、冷蔵庫に格納する。次に目下海兵隊基地移設の腹案の地としてやかましい我が故郷なる徳之島、そこの親戚が送って下さった美味なる新ジャガ芋(徳之島は純然たる農業の島であり、とくに馬鈴薯とサトウキビはその代表作物である)を大さじ一杯のオリーブオイルをしたたらせたフライパンで(約一センチ幅に切った皮付きのままの馬鈴薯を)低温で焼いてゆくのである。箸で貫通するぐらいを目途として引き上げる。さて、二三十分充分に冷やした(一日ぐらいの余裕があればもっといい)鯖を取り出して、先ほどの馬鈴薯の上に載せる。塩こしょうを簡単にしておく。それを220度のオーブンで15分から20分かけて鯖に焼き色がつくまで焼きあげる。残りのタイムか檸檬の汁をかける。これで終わりである。充分に美味であり、わが女房殿も何十年ぶりかに誉めてくれた。ほめて育てようという魂胆であろう。うぬぼれになるが、これでビールがひとしおうまく飲めたことを言い添えておく。

 新ジャガの土の匂いに雨の添い
 老父老母掲げし鍬やプラカード
 みんなみの島を響もすシュプレヒコール

鮎川信夫賞

第一回鮎川信夫賞の授賞式に参加した。谷川俊太郎さんの受賞にこたえることばは受賞詩集「トロムソコラージュ」での詩である「臨死船」に鮎川信夫を乗せて、鮎川が何を言ったかということを軽妙に述べた夢のような、詩のような、すばらしいものだった。

瀬尾さんのきびしいことばに感動した。そのまえに、彼がまずこの本が成立したのは稲川と自分だけの力ではないといい、岡田さんを含め何名にものぼる人々の名前をあげて感謝の気持ちを捧げたのにも深く感動した。

稲川さんの挨拶のことば、「声を出すということ、発言するということの現代における困難さと、それに抗して声を出すということ、発言するということの大切さ」というようなことばにも動かされた。二人ともシンプルだが、とても大切なことば、聞くものの胸に響くことばだった。

帰りは二次会には出ずに、高貝さんと二人で帰る。電車の中で、ぼくはそうとう馬鹿なおしゃべりをしたような気がする。

寒い雨の市ヶ谷、心に残る時間だった。

2010年4月20日火曜日

白雄

白雄句

 友と一緒に信州上田にて桜を満喫する。また村山槐多、関根正二、野田英夫などのデッサンや絵を見る(信濃デッサン館)。上田城の夜桜を見てのかえり、堀端に江戸中期の俳人、加舎白雄(1738ー1791)の碑があり、彼がここ上田出身の人であるということをはじめて知る。以下、白雄の句を記念に掲載しておく。


人恋し灯ともし頃を桜散る

町中を走る流れよ夏の月

園くらき夜を静かなる牡丹哉

子規鳴くや夜明けの海が鳴る

菖蒲湯や菖蒲寄り来る乳のあたり

めくら子の端居淋しき木槿哉

永き日に我と禁ずるまくらかな

春の日を音せで暮る簾かな

はるかぜや吹かれそめたる水すまし

二股になりて霞める野川かな

いとまなき世や苗代の薄みどり


いずれも感覚鋭敏、細かい観察、鮮明な表現の句だと私は思う。

2010年4月19日月曜日

上田夜桜紀行

景観保存地区の町並み

 
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亀齢酒造
 
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上田高校お堀の桜
 
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上田城大手門
 
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お城の夜桜1
 
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夜桜2
 
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夜桜3
 
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加舎白雄顕彰
 
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堀端の白雄記念碑
 
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前山寺の桜(以下、翌日4月18日)
 
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信濃デッサン館
 
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村の鎮守の御柱祭
 
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(4月17日、岩田さんと午後4時前の「あさま」で出発。上田まで一時間半。車中飲む、降りてからも上田城、居酒屋と彼の友人阿部さんをまじえて飲む。阿部さんの所で一泊する。翌日は、阿部さんの車で塩田平を抜けて信濃デッサン館にゆく。阿部、岩田の学生時代からの交友の深さに打たれた旅でもあった。ご両人に深く感謝する。)