2008年6月8日日曜日

古酒(クースー)

先日、友人たちがやってきて飲んだが、そのとき頂戴した酒に、泡盛があった。「瑞泉」だった。それを今日よく見ると43度のクースーではないか。一升瓶。驚いた。そのときは、いろんな酒をみんなで飲んで酔っ払っていたので、よくわからなかった。栓は開いているのだから、飲んだのだろう。でも、ほとんど残っている。なんということか!この酒と、それを持参した友人にもっと敬意を払うべきだったと思いながら、今チビチビこの古酒を味わっているのです。後で「利く」、そういう静かなたたずまいの酒は、ぼくの親友にピッタリだったと今思う。許せ、Sよ。おまえは、あの日はあまり元気がなかったね。ともに定年、ともに現下の生活について、いろいろ話したはずなのに、おまえは口数が少なかった。そういうことを今思い出した、おまえがくれた古酒を飲みながら。

今まで、ぼくらはいろんなことで苦労したのだから、おまえの気持をそのときぼくが測れなかったというだけで怒る仲ではないはずだ。今になって、いつも「事後」に気づくのは、ぼくの悪い癖だとしても。だから、どうというわけではないが、あのときの、いつもにも増して口数の少なかったおまえのことを思いながら、ありがたくこの酒を飲んでいるのだよ。

古酒や、それに類したもの言わぬ古びたものが、最近とみに心に残る。

街に出ると、切りつけられるような世の中だから、家にこもって、古びたものとの「時差」に酔うしかないのかもしれない。どんなに速く泳げたって、それがどうした、イルカやマグロよりも速くは泳げないだろう。水着を変えれば速くなるなら、裸で泳いでみよ。しかし、若い、恐れをしらないスイマーが、自分の速さに自分で驚きながら、少しだけmodestyな表情になっている。北島という男に、ぼくは、はじめて好感を持った。

古びたはずの、某知事はあいかわらず馬鹿で傲慢だ。こんなに成長しない人間というのは珍奇である。この男については、書くだけ自分でもいやになるが、今や最高最大のky(空気読めない)で、「自己責任」を取れない、そして見事なばかりに、人のせいにする、どうでもいい「おじいさん」になった。43度の泡盛なぞ、この男には「もったいない」。

小林秀雄の真似をして「実は、何を書くか判然しないまま、書き始めている」のである、というような偉そうなことは、ぼくには言えないから、泡盛の酔いのせいにしたい。いや、これで実はもう「書き終り」。「実は」後少しで。

Takrankeさんが、Brodskyを思い出させてくれたから、そういうわけでもないが、つれづれにまかせて、閉じこもり老年のなぐさみとして、You Tubeを検索してみた。この地上の言語で、この地上の風景で、ぼくが語れない、でもわかりたい言語、ぼくが見たことのない、でも脚を踏み入れたい風景、それがありすぎるので、ぼくは決して「宇宙」なぞには行くひまがないだろう、そういうことを確信させてくれるのが、次のクリップです。

Brodskyには、もちろんこの地をテーマにした"Watermark"という傑作がある。

では、では、Takrankeさん、はじめ、Sよ、これを見ているなら、この古びた街と、この言語の素敵なコラボレーションを楽しみたまえ。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

いやあ、これは晩年のブロツキーでしょうか。これは、だれなのでしょう。水島さんの後を追って購入したブロツキーの批評集の顔写真の鋭利で細い顔立ちとは違って、随分ふくよかになっているけれども。

こうして詩が朗読されることを聴くと、詩とは、つまり文字通りに生きた詩とは、

(1)抑揚
(2)韻律
(3)声調

この3つからなっているとわたしは思いました。

これは、ロシア語なのでしょうねえ。ひとを惹き付けてやまない不思議なことばだ。お経のようでもありました。

最後の終わり方がとてもよかった。

このような詩が日本語で書きたいものです。

ban さんのコメント...

これはBrodskyその人です。

ロシア語の朗読、これはたぶんこういう読み方、というのは韻律と深い関係がある朗読なのでしょうね。最後のところで、決まったような、「合いの手」のような調子で読まれるところが、とても面白かったです。そう、お経といってもいいし、「倍音」のようでもありますね。

あたりまえのことですが、詩は日本の現代詩ばかりではないということが、変にぼくを元気づけます。

匿名 さんのコメント...

あたりまえのことですが、詩は日本の現代詩ばかりではないということが、変にぼくを元気づけます。


ぼくも全く同感です。少ない経験ではありまするが。

ブロツキーは、歌う詩人だ。詩人は、歌う者だと、ひっくり返していうことができるのではないでしょうか。すべての詩人がそうではないにせよ。