2008年6月9日月曜日

in Rampage

A 25-year-old man who told the police he was tired of life went on a killing rampage in a popular shopping street in central Tokyo on Sunday, plowing his truck into a crowd of pedestrians before stabbing passers-by with a survival knife. Seven people died and 11 were injured.


Man Kills 7 on Tokyo Street in Rampage
By NORIMITSU ONISHI


上記はThe New York TimesのWeb版での、昨日の秋葉原の事件の報告の冒頭部である。NORIMITSU ONISHI氏という、いつもの日本の寄稿家のそれである。これを最後まで読んでも、この事件の「闇」は明らかにはならない。こういう「報道」のスタイルで終始している、しかしくだらない解説よりも、こちらの後づけにすぎない報告の方で充分だという思いもある。

rampageという語は、あばれまわること、大暴れ、という名詞と、その自動詞として使うと辞書に載っている。in rampageは「暴れ回って」という成句である。即物的な、その定義の底に、すべては閉じ込められれている。明らかになったのは、この25歳の男が、「人生に疲れて」いたことである。それに、今日のニュースによれば事件寸前まで、彼は自らの思いをネット上の記事として、逐一書いていた。それは無残なヒーロー気取りといえばいえるものだが、そのなかで、私が記憶にとどめたのは、「自分がだれからも必要とされていない」という記事だった。

この種の不全感が殺人に結びつく、その短絡さはいくら非難しても足りないが、こういう思いそれ自体は実に当然の思いであると私は考える。その孤立感に耐えて、自らを「他者」化するまでに、「人生に疲れ」ていることが必要な常態であると、今の私はそう思う。でも、ときどきふきあげるrampageの思いは御し難いものがあるが。

どこにも由来を持たない、必然性のない、突然の「死」に出遭った人のなかで、一番若い人は19歳の友人同士だった。殺されたすべての人の無念さは言うまでもない。

昔、アメリカの友人たちとテキサスからメキシコ湾まで南下する旅をしたことがあった。テキサスの州都、オースチンにあるテキサス大学は、友人夫婦の母校である。そこを訪ねたとき、友人が、大学の広場の建造物に残されているいくつかの穴を指して、これが、あの大虐殺(マサカ)のときの銃弾の跡だと教えた。あのときは何人殺されたのだろうか?「無差別」に、大学の塔の上から、銃を撃ったのである。

比較しても意味はないが、こういう「殺人」の底をいくら探しても、それ自体がぽっかり空いた「穴」のような、おそろしく無意味な、ものとことに帰着するのではないだろうか。それらが、この現代の在りようそのものに結びついていることだけは確かな。

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