2008年6月19日木曜日

twice-born

 魚津郁夫『プラグマティズムの思想』(ちくま学芸文庫)を拾い読みしていたら、ウィリアム・ジェイムズについての章のなかに、次のようなことが書かれていた。

 ジェイムズはその著『宗教的経験の諸相』(1902年)のなかで、人間にはふたつのタイプがあると書いた。もちろん、このタイプは理念的に抽象化された、それであって、ほとんどの人間はその中間に属しているという留保をつけながら。ひとつは「健全な心」の持ち主であり、もうひとつは「病める魂」の持ち主である。この二つの類型化のもとにあるのは、イギリスの神学者、フランシス・W・ニューマン(1805-97)の「一度生まれ(once-born)」と「二度生まれ(twice-born)」という二つの系統の子を神はもうけた、という考えらしい。

 つまり、「健全な心」の持ち主は、ニューマンのいう「一度生まれ(once-born)」にあたり、「病める魂」の持ち主が「二度生まれ(twice-born)」に属するのである。前者の特徴は「万物を善きものとして楽観的にみる傾向をもち、いわばただ一度この世にうまれただけで幸福になることのできる人」であり、後者は「この世を悪いものとして悲観的にとらえる傾向をもち、幸福になるためには、もう一度うまれかわらなければならない人」である。

 「一度生まれ(once-born)」の代表選手として、ウィリアム・ジェイムズが挙げているのは同国人の詩人、ウォルト・ホイットマンである。「彼にとっては、草や木や花、小鳥や蛙、空の様子、…森羅万象が魅力を持っていた。彼はいかなる国籍や階級の人も、世界史のいかなる時代も非難せず、…天候や病気、その他なにごとについてもけっして不平をいわなかった。彼はののしることをせず、恐怖をおもてにあらわしたこともない。そもそも恐怖を感じたことがあるとは思えないほどだった」というのはホイットマンの弟子の言葉である。哲学者としては、スピノザを挙げている。これはもっともだと思える。

 「二度生まれ(twice-born)」の代表選手としては、聖アウグスティヌスが取り上げられる。宗教者の前身はたいてい破戒無慚なものだが、その典型としてオーガスティンが挙げられているのだろう。このタイプは「回心」conversionという第二の誕生が、その生のなかで設けられているので、見やすい。それゆえ、生まれかわる必要はないのではないかとも思ってしまうけど。一身にして二生を経たということか。あと、トルストイの回心にもジェイムズは触れ、ト翁も「二度生まれ(twice-born)」のタイプに整理している。

 今日は太宰治の命日、「桜桃忌」。この自殺未遂の偏愛者はたしか13日に入水したのだが、その遺体が確認されたのが昭和23年の今日である。ウィリアム・ジェイムズが彼のことを知っていたなら、まぎれもない「二度生まれ(twice-born)」の代表選手として彼を特筆しただろう。彼は「生まれてすみません」というのだから、その前世においても苦悩の旗手だったのであり、三度、四度生まれ変わっても、彼の嘆きは尽きることがないだろう。そういう意味で、稀有な人物であり、その徹底さが、いつの世でも、悲嘆にくれるものの味方になる。

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