2008年6月25日水曜日

連詩『卵』6


成城学園前から千歳船橋へ
千歳船橋から千歳烏山へ
バスで移動した。
ちがう街の空気、穴と割れ目の
隠し方をそれぞれに工夫しているから
卵にむかう理由も変化する。         (健二)


片倉の蓮池で翡翠を見た、2度目だ。
望遠レンズのカメラたちもじっと見つめている。
とても小さな、それでいて梅雨空を輝かせる宝玉。
水面に垂れている細い枝に軽く止まっていたが、
水に突っ込むと、スーッと空に上昇して行った。
そのことを思っていた、その姿も。          (英己)


ねむれない夜、
わたしから遠く、夜のはてを
鳴きながらわたってゆくものがある
あれは何だ、夜明けを知らせる鳥のような
かすかな光を運んでゆくいのちの歌声のような
天に近く、ねむれない私からはるかに遠く、         (豊美)


(日記)
新井さんの、この詩を読むと、胸がザワザワする感じになる。むろん、その反対の、寂しさの極とともにだが。

小林多喜二の『蟹工船』を読んでいる、そのなかに、次のような描写がある。

昼過ぎから、空の模様がどこか変ってきた。薄い海霧(ガス)が一面に―しかしそうでないと云われれば、そうとも思われる程、淡くかかった。波は風呂敷でもつまみ上げたように、無数に三角形に騒ぎ立った。風が急にマストを鳴らして吹いて行った。荷物にかけてあるズックの覆いの裾がバタバタとデッキをたたいた。
「兎が飛ぶどォー 兎が!」誰かが大声で叫んで、右舷のデッキを走って行った。その声が強い風にすぐちぎり取られて、意味のない叫び声のように聞こえた。
 もう海一面、三角波の頂がしろいしぶきを飛ばして、無数の兎があたかも大平原を飛び上がっているようだった。――それがカムサッカの「突風」の前ブレだった。にわかに底潮の流れが早くなってくる。船が横に身体をずらし始めた。今までに右舷に見えていたカムサッカが、分からないうちに左舷になっていた。


 これを読みながら、私は昨日の漁船の遭難のことを思った。この描写の力はすごい。テレビなどのメディアの「報告」や気象士たちの解説よりもリアルだと思う。「兎が飛ぶどォー 兎が!」というのは、危険な三角波が「兎のように飛び跳ねている」という点から言えばメタファーだが、しかし私はそのようなのんびりとした類似性をここには感じない。これは、三角波のあだ名に相違ないのであって、これはメトニミー(換喩)であろう。劣悪で過酷な仕事に縛りつけられた貧しい漁夫たち、東北の山村から、背に腹はかえられぬ思いで、この仕事に飛び込んだ彼らにとって、この三角波を呼ぶにもっともふさわしい名である。意味も何もない(いや、それを奪われた)環境のなかで、そこにただ存在するものに向き合い、生存のために、それらと、ときには協働し、ときにはそれらと戦うとき(こちらのほうがすべてだろうが)、それらの適切な比喩をぎりぎりのところで案出すること、そういう実践が、実は小林多喜二の『蟹工船』のテーマである。

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