2008年6月29日日曜日

高貝弘也『白秋』を読む。

宛名のない手紙

 高貝弘也の『白秋』(書肆山田)を読む。この手紙形式で書かれた北原白秋の「童謡」についてのエッセイの美しさは比類がない。対象への純粋な愛情がどの行文にも静かに秘められていて、それが読む者の胸をまっすぐに打つ。ここには高貝という稀有な詩人だけが発見できる詩人白秋の「現代的」な意義があるのだが、そのことについては後日ゆっくり考えてみたい。
わたしは、ただ幼いときから、白秋の童謡になじんできただけのものです。けれどもこれから、白秋の高く広い世界へ、あなたとともに足を踏み入れようとしています。それは、迷ってばかりの堂々巡りが関の山かもしれません。せめて、トンボの眼玉に潜りこんで、千も萬もの小人と一緒に、言葉の光を内側から覗きたい…と思いながら、この寄る辺ない文をはじめます。何かにつけて、あなたの感じ方と違っている点などあるかもしれません。そのつどお知らせ願えましたならば、真に幸いに存じます。      不一

「第一通 三月の柳川」の最後の文である。「あなた」と呼びかけられているのはわれわれ読者。「トンボの眼玉」は白秋の第一童謡集『トンボの眼玉』の巻頭詩篇から。基調となる高貝の文体は以上のようなものだが、私はそれを「呼びかけ」の文体と呼んでみたい。その「呼びかけ」は手紙形式ということで採用されたものかもしれないが、それ以上に、高貝弘也という詩人に固有のものであると私は考えている。彼の詩には、虚空に呼びかけるという趣(粗雑な言い方だが)が、いつも感じられる。応答の彼方にあるものに呼びかけるから、普段の詩人はいつも寡黙すぎるほど寡黙なのだ。もちろん、詩人は「何かにつけて、あなたの感じ方と違っている点などあるかもしれません。そのつどお知らせ願えましたならば、真に幸いに存じます」というように応答を拒否しているのではない。私は彼の詩とエッセイを混同しているのだが、それを承知で書いている。

引用文より前に、「前略」と題された文章がある。私は、―「あなた」と呼びかけられているのはわれわれ読者―と先ほど書いたが、正確には「前略」には次のようにある。

これら十一通の手紙は、宛名のない手紙です。
ささやかなこの書物をひもといてくださる、
あなたへ宛てた手紙です。
そして、あなたは、白秋でもあります。


なぜ、わたしたち読者は白秋でもあるのか。それは「白秋」という筆名が偶然に文学仲間たちとのくじ引きで採用されたものであり、そのことで北原「隆吉はたちまち無名性を帯びはじめ」「普遍的な世界へとつながった」、それゆえ―「白秋」とは、単に個人名や固有名詞ではありません。/そう、白秋は、あなたでもある」―からだ。「前略」は以下のように結ばれる。

 

 だから、これらの手紙は、宛名のない手紙です。
 なによりも詩と童心を愛する、
 あなたへ贈る手紙です。

 
 私には、これは高貝弘也の自作詩の解説としても読めるということを言いたい気持ちがあるが、それはさておいて、「白秋」という無名性の他者、「なによりも詩と童心を愛する」あなた、という規定が、このエッセイの美しさを保証するものになっているということを確認したいのである。そして、この宛名のない手紙は、たしかに「届いた」のである。

 「詩と童心を愛する」ということにこだわる必要はない。彼方にあるもの、それが「詩と童心」だと私はとらえる。それに、かそけく呼びかけること。その応答を決して期待しないこと。呼びかけ自体が「言葉の光」となるまで。

 

 赤い鳥、小鳥、
 なぜなぜ赤い。
 赤い実をたべた。

 白い鳥、小鳥。
 なぜなぜ白い。
 白い実をたべた。

 青い鳥、小鳥。
 なぜなぜ青い。
 青い実をたべた。


私は、この書物を終りまですべて読んだわけではない。まだ、その「第六通 マザー・グースは天の配剤か」までだが、一貫して、玲瓏とした美しさ、という言葉を思っていたのである。

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